蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

カラヤン指揮ウイーンフィルで「ドン・ジョヴァンニ」を視聴して


♪音楽千夜一夜 第154夜

 1987年ザルツブルク音楽祭におけるライヴをLDで視聴しました。カラヤンは交響曲や管弦楽曲では問題があるが、ほとんどのオペラの演奏の大半は素晴らしい。それは彼が歌手の声をよく知って彼らの最上の歌わせ方を心得た伴奏をしているからでしょう。

マエストロの晩年のこのモーツアルトでもその特性はぞんぶんに生かされ、とくにドンナ・アンナのアンナ・トモワ=シントウと ツェルリーナのキャスリーン・バトルの歌唱は素晴らしい。不調のドンナ・エルヴィーラ役のユリア・ヴァラディでさえ難アリアをなんとか歌いおおせ聴衆の拍手を頂戴できるのもひとえにカラヤン御大の適切なテンポの設定によるのです。

演出はどんな場合でも安心してみていられるベテランのミヒャエル・ハンペ。冒頭でドン・ジョヴァンニに犯されたドンナ・アンナが、暴漢を憎んで右手にナイフを握りしめつつも左手でその男の右肩を抱いてしまう箇所などにその真髄が表れていますが、広大なザルツブルクの劇場空間をたっぷり使ってきわめて巧みな場面転換を見せています。
とりわけ終幕のドン・ジョヴァンニの地獄落ちの美術セットは宇宙的な光景を招来させて見事。これでこそ悪の帝王と人知を超えた天帝との対決のスケールが表現できるのです。

しかしモーツアルトがこのオペラをウイーンで再演したとき、第2幕の最後の6重唱はカットされ、音楽はドン・ジョヴァンニの地獄落ちで突然停止しました。保守反動の街ウイーンとヨーゼフ2世へのモーツアルトの命懸けの抵抗です。

映画「アマデウス」でもそのシーンは再現されていましたが、それでこそ絶対の自由を志向する反逆児の権力への拒否が活かされる。
「ノン! ノン! ノン!」とペトロのように3度否認した音楽は突然空中分解し、強烈な不協和音をまきちらしながらその場で急停止します。

その瞬間に訪れたものは恐るべき沈黙。そしてそこにのっぺらぼうのようにひろがった神も世界も無い空虚な時空の裂け目を正視できたものはひとりもいないでしょう。反逆児を呑みこんだ天界もまた即死したのです。神も人も無き無間地獄を見せる。それがこの天才のとほうもない仕掛けでした。

 よく気をつけてみれば、(女声はともかく)このオペラの男性の歌い手でテノールはまことに地味な役柄のドン・オッターヴィオただ一人しかいません。しかし管弦楽も低弦が強調されて異様に分厚い。「ドン・ジョヴァンニ」は、生きとし生ける者が地べたを這いずり、のたうちまわり、死から始まって地獄で終わる重々しいドラマであるがゆえに、かつて同じ音楽祭で上演されたフルトヴェングラーのライブを凌ぐ演奏は稀なのです。

モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』全曲キャスト
 ドン・ジョヴァンニサミュエル・レイミー
 ドンナ・アンナ:アンナ・トモワ=シントウ
 ドン・オッターヴィオ:エスタ・ヴィンベルイ
 騎士長:パータ・プルチュラーゼ
 ドンナ・エルヴィーラ:ユリア・ヴァラディ
 レポレロ:フェルッチョ・フルラネット
 マゼット:アレクサンダー・マルタ
 ツェルリーナ:キャスリーン・バトル
 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(コンマス ゲルハルト・ヘッツェル)
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮) 
演出:ミヒャエル・ハンペ
 映像監督:クラウス・ヴィラー
 収録:1987年 ザルツブルク音楽祭[ライヴ]
 収録時間:189分


飛蝗共が喰うたる紫蘇を食らうかな 茫洋