蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

加藤典洋著「さようなら、ゴジラたち」を読んで


照る日曇る日 第371回

著者の「敗戦後論」以降のいくつかの論文を、ここでまとめて読むことができました。

戦前や戦中派にとっては第2次大戦の悲劇から受け取った教訓はそれなりに身に染むたぐいのものでしょうが、戦後生まれ、とりわけ10代、20代の戦争をまったく知らない若者にとってのそれはどうなっているのでしょうか。

彼らの多くは「自己中」であり、「戦争なんて関係ない」という捨て鉢の言辞のもとに、おのれと過去の歴史総体との関連を断ち切り、現在の社会や「世界」との関係もできるだけ希薄なものにしておこうとする性向が際だっているのではないか。

それを嘆く大人たちは、自閉する若者たちに向かってあれやこれやの戦争体験をラウドスピーカーでがなりたて、戦後民主主義の貴重な意義をいわば暴力的に吹きこもうとしているわけですが、そういう外部からのイデオロギーの注入は所詮は無駄なのでいっさい止めて、彼らをして彼らの道を歩ましめよ。

世界平和なぞ犬にでも喰われろ、などと叫んでいる手合いであっても、いずれは社会性にめざめ、おのれの無垢なる少年性に別れを告げ、おもむろに手ごわい他者と出会い、公共的な地平に歩み出て、この世界でいかに生きるか、いかに取り扱うかという問題に首をつっこむであろう。

先輩たちのもっともらしいご高説やらアドバイスをすべて退けて、てんで無知で白紙の彼らがゼロ地点から戦後と世界に向き合う時に、はじめて戦後人による戦後選択肢が生まれてくるので、憲法も第9条も天皇制も彼らの成長と成熟にゆだねよ、というのが彼の超楽観的?な考えのようです。

だからといってわれら年長組がなにもしないで万事を放擲すればいいということではないのですが、これまでの経緯と思考をいったんチャラにして、いまこの世に誕生したばかりの赤ん坊の視点で政治経済社会を俯瞰してみるのも悪くはないなと思ったことでした。


これと関連して著者が本書で展開している宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」論や憲法論、靖国神社を破壊するゴジラ論や「かわいい」論、埴谷雄高論も軽々しく読む捨てにできない興味深いものです。



一粒の麦死なば多くの実を結ぶのだろうかと一粒の麦は迷う 茫洋