蝶人戯画録

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五味文彦編「現代語訳吾妻鏡9執権政治」を読んで

照る日曇る日 第394回&鎌倉ちょっと不思議な物語第235回

私の偏愛する3大将軍が北条家の陰謀で暗殺されたあとは、もう悪辣非道な北条一族が頼朝ゆかりの宿老たちをまるで鶯をなぶり殺しにするタイワンリスのように血祭りに上げるだけの陰惨な悲劇の連続と相場が決まっているので、ほとんど関心がない吾妻鏡であるが、それでも読んでいるといくつかの発見がある。

時政の後を継いだ諸悪の根源北条義時は元仁元年1224年に62歳で急死し、弟の泰時が京から呼び寄せたれて弟の時房と共に執権の座につくが、当初のその権力基盤ははなはだあやういものであったことが彼らの姉の政子の動静を追っているとよくわかる。

わが子源家ゆかりの頼家、実朝の2人のわが子を見捨てて北条一族のお家大事に原点回帰したこのけなげな女は、御家人の離反をなんとしてもさけようと昼夜をわかたず懸命に奔走している。当時の最強の後家人はもちろん相模の国の半島に磐居する三浦一族の長義村であるが、閏7月1日の条では、泰時・時房の傍らで4代将軍頼経をひしと抱いた政子は義村を帰すまいと朝まで身をもって引きとめているのである。

その後も鎌倉の騒乱は収まらず、その都度北条は三浦一族の反乱を死ぬほど恐れていたことがうかがえるのであるが、捨て身ともいうべき政子の懐柔が乾坤一擲見事に成功したために、お人好しの義村は蜂起の決定的なチャンスを失い、この希代の女性政治家は嘉禄元年1225年7月、精魂尽き果てたように69歳で卒した。

北条家最大の危機を政子の最後の、命懸けの政治活動でしのぎ切った北条氏は、その22年後の宝治合戦で、関東最強武士団三浦氏を完膚なきまでに殲滅したのである。

もうひとつの発見は、この時代の寺社仏閣の創建がいとも短期に果たされていること。
例えば泰時による若宮御所の宇津宮辻子への移転は、わずか1月足らずで実施されているし、わが家の近所の大慈寺の丈六阿弥陀堂などは3月29日に審議がまとまって4月2日に上棟されている。

幕府は工事の場所や日時については京からやって来た陰陽師の安倍一族に何度も何度も占わせて慎重を期しているが、いざ決定すると猛烈なスピードで完成させていたようだ。ちなみにこのお堂の丈六の仏頭は塩嘗地蔵で知られる光蝕寺の本堂に安置してある。飛鳥大佛を想起させる縄文風のアルカイックな風貌がユニークである。


七百年あまたの死者を葬いし小さき鄙を鎌倉と呼ぶ 茫洋