蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」をみて

kawaiimuku2011-01-22



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.76

ゴダールの59年の長編処女作「勝手にしやがれ」は、オットー・プレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て、世界的な大成功を勝ち取りました。

 全篇パリの街頭とアパルトマンのロケーションで撮影されたこの作品は、ベルモンド扮するニヒルな若者の不条理な殺人やなげやりな生きざまの中で真珠のようにきらめく一条の純愛、そして犬がくたばるような唐突な自己破壊を淡々と描いていますが、終わってみれば典型的な勧善懲悪物語となっており、悪に対する神の裁きがしがないあんちゃんを、パリの灰色の舗道になぎ倒します。

というよりも殺人を冒し恋人から裏切られたこの不幸な若者には自殺しかみちがなかったのです。ゴダールはこの映画の中でニューヨーク・ヘラルド・トリビューン社の前で、犯人をみずから刑事に密告することによって、この映画の倫理的性格をはっきりと表明しています。ベルモンドはいくらかっこよくても天国には入れない悪人なんだよと言っているわけです。

ところがおなじヤクザ者のB級パルプフィクションでも、「レザボアドッグス」のタランティーノ監督の脳内には、悪を裁く存在、すなわち神がいない。もしかすると北野武の暴力映画にも。だからあの映画をみていると、私たちは吐き気を覚えるのでしょう。

そんなことはどうでもいいが、1979年8月、パリ郊外で遺体が発見されたジーン・セバーグの死は、当時新聞に掲載されたそのいたましい写真の記憶と共に、私の長く小さな悲しみとしていまも残っています。ストライプのコットンシャツとジーンズがよく似合った可愛い女でありやんした。


ニューヨークヘラルドトリビューン!と叫びながら売っていた女の子 茫洋