蝶人戯画録

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井上ひさし著「井上ひさし全芝居その七」を読んで


照る日曇る日 第412回

この最終巻に収められたのは、「夢の裂け目」「夢の泪」「夢の痂(かさぶた)」、「水の手紙」「円生と志ん生」「「箱根強羅ホレル」「私は誰でしょう」「ロマンス」「少年口伝隊一九四五」「ムサシ」「組曲虐殺」という著者最晩年を華やかに彩った戯曲たちである。

彼が一枚一枚、一字一字神田金港堂のモンブランで書き刻んだ戦中戦後の日本人の精神ドラマを雪降る春の夕べに読んでいると、わが心の裡なる幻のステージで、豪華絢爛な演劇メドレーが次々に再演されていくような錯覚に陥り、さらに親子二代に亘ったこの頑固な「共産主義者」が、革命家小林多喜二を扱った「組曲虐殺」で擱筆せざるを得なかった運命を顧みると、感慨無量のものがある。 


けだしこれほどに面白くて可笑しく、我等の生活と思想について深々と躓かせてくれる演劇作家の最新作ともはや対面できないという悔しさと哀しさがこみあげてくる全七四五頁というべきであろう。

「組曲虐殺」についてはかつてこのスペースで感想を述べたことがあるが、著者の最後から二番目の「ムサシ」と同様、敵味方の流血の争闘をアウフヘーベンする無類の「笑いを含めた許しの境地」にいたく感銘を覚えた。前者ではタイトルとはうらはらに「虐殺」の血糊をあえて見せず、後者では二人の剣豪は対決を中止してそれぞれの平和の道を究めることになるのである。

これらの宥和的な姿勢は、東京裁判を取り扱った「夢の裂け目」「夢の泪」「夢の痂(かさぶた)」の三部作や、広島の原爆投下の悲劇を主題にした「少年口伝隊一九四五」の糾弾的なスタンスとはかなり異なるもので、これをもって著者晩年の思想的進化と見るのか、はたまた退歩ととらえるのかは、観者によってそれぞれの感想があるだろう。

私が今回のベストに選んだのは、ロシアの文学者チエーホフの生涯を描いた2007年に書きあげられた「ロマンス」で、ここにはチエーホフの芸術と人生のエッセンスが、著者みずからの創作の喜びと悲しみと重ね合わせるようにして、ひそやかに歌いあげられている。死んだ日露二人の芸術家は、骨の髄までボードビリアンだったのである。


利幅薄き莫大小の商いで10億円を寄付したる人 茫洋