蝶人戯画録

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サイモン・ラトル指揮「マーラー全集」を聴いて

私がいくらロバの耳を澄ませても、いったいどういう音楽をやりたいのかさっぱり分からない音楽家は、アーノンクールや小澤やケント・ナガノやサバリッシュやブロムシュテットなどたくさんいるが、若くしてサーに功成り遂げたラトルもその一人だった。

ところマーラーイヤーということでEMIから彼が主にバーミンガムの市立オーケストラを指揮した交響曲全曲と大地の歌に未完の10番をクック盤で入れたものもパックした14枚組のCDがなんと2990円で叩き売られているというので、1枚当たり213円の超廉価だけにつられて、されど全くなんの期待もせずにネットで購入してちびちび聴いていると、これが意外なことにちょいと面白かったのである。

いちばん面白かったのはかねて定評のあった第10番のシンフォニーであるが、その他の交響曲も細部の表情へのこだわりがなるほど、ここんとこをこういう風にやっているのか、とその解釈の当否は別にして、私ははじめてこのサーと呼ばれる指揮者のことを、サー、ラトルねえと疑問符を付けずに理解出来たような気がしたのであった。

そんあある日、FM放送で彼のくるみ割り人形ブラームスの4番を立て続けに聴いた私は、これがあのサーねのサイモン選手かと驚き、まるでカラヤン全盛時代を思わせる大迫力で熱狂的な演奏を繰り広げているベルリン・フィルにも一驚したのであった。

さよう、彼は昔の彼にあらず。ラトルはもはやどのような新録音も無視できない「ほんたうのマエストロ」に突如大変身してしまったのである。私はベルリン・フィルが一カ月3千円ほどで公開しているライブ映像を視聴したいのであるが、残念ながらパソコンから音声が出なくなってしまったのでそれも叶わず、こんな隔靴掻痒の雑文を書き飛ばしている次第である。


人間風情に毛虫と呼ばれる筋合いはない 茫洋