蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ジョージ・セルの「ハイドン交響曲選集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第221回


ジョージ・セルはナチスから逃れてジョージョ君などと英語で呼ばれるようになったが、同じハンカリー人のゲオルク・ショルティの姓と同じ綴りなのでゲオルク・セル選手と呼んでもよろしいのでせう。

しかしこのジョージョの練習はトスカニーニよりも厳しかったようで、名演として知られるこのハイドンの演奏の奥底にも怒鳴られ叱りつけられ怯えきった楽員の恐怖と緊張が焼き込まれているようで、その室内楽的なアンサンブルは絶妙なのだが、なにやらエトナ山頂で鑑賞させて頂いているような異様さが暗に感じられてならない。

脅迫された哀れな楽員たちはセロ弾きのゴーシュのように死に物狂いで弾いてはいるが、音楽のほんとうの喜びや楽しさは微塵も感じられず、空虚な美しさが垂れ流されていく。それは名演ではあるが、しょせんは独裁者による戒厳令下の奴隷の音楽なのである。私は王侯の音楽と同様奴隷の音楽だって嫌いではないが、それがロバのような私の耳に聴き取れることが怖いのである。

セルもトスカニーニも確かに名マエストロであり、幾多の名演を残したのは事実である。しかし私の考えでは、己の膝下の楽員を鞭とミュージカル・ハラスメントで威圧しないと己が完璧と信じる演奏が成就出来ない人は、その人格に欠損があるか、その脳内で鳴る彼の音楽にいささかの自信がないかのいずれかである。

かのフルトヴェングラーやクナパーツブッシュがほとんど言葉に頼らず、ほとんど「眼の一撃」だけで彼らの理想の音楽を誕生させることができたのは、彼らが暴力と強制による音楽作りを退け、愛と参加と共生による音楽を無から想像するすべを生まれながらに心得ていたからであらう。 

そういう意味では、セルもトスカニーニも可哀想な指揮者であった。



さりながら奴隷の音楽も美しいと美しい奴隷が言うた 蝶人