蝶人戯画録

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ドナルド・キーン著「正岡子規」を読んで

kawaiimuku2012-10-09



照る日曇る日第543回


俳句と和歌の革新者である子規を論じた書物は、その大半が熱烈な賛辞と圧倒的な高評価で埋め尽くされているのが通例だが、最近本邦に帰化して新・日本人となられたキーン翁のこのたびの評伝は、けっして贔屓の引き倒しの悪弊に陥らず、非常に冷静かつ正確な語り口で終始していて、例えば子規に師事しながら「その人格冷血」などと指弾した若尾瀾水の悪口を紹介しているところなどが、かえって新鮮だ。

しかし脊椎カリエスのためにかのモーツアルトと同じく弱冠三五歳にして泉下の人となったこの偉大な文学者は、「詩歌」と「俳句」と「短歌」という日本語を創成しただけでなく、翁が結論付けておられるようにわが国の短詩形文学の「本質を変えた」のだった。今日私たちが「俳句や短歌で現代の世界に生きる経験を語る」ことができるのは、ひとえにこの早世した天才のおかげなのである。

古今集や新古今、芭蕉をおとしめた功罪は相半ばするとはいえ、万葉集を再評価し、実朝、蕪村を「発見」した功績は、子規の実作がそれらの影響を殆んど受けていないとはいえ、他の誰もがなしえなかった日本文学史への貢献であった。

また子規が童貞ではなかったこと、漱石と共に大学予備門で学んでいた当時の英語の実力を侮るべきではないこと、彼が生涯で九〇篇の個性的な新体詩を作ったこと、西洋音楽のレコードを蓄音機で聴いた子規が、(みずからヴァイオリンを弾き、ワーグナーを愛した彼より一九歳若い石川啄木には及ばないとしても)、想像力を駆使して三つの歌を創作したなど、博学のキーン翁ならではのエピソードも鏤められていて読み応えがある。

秋茄子を一袋百円の有り難さ 蝶人