蝶人戯画録

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高橋源一郎・辻信一著「弱さの思想」を読んで

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照る日曇る日第703回

 

世に所謂グローバリゼーションと新自由主義の進行によって、貧富の差はますます拡大し、持てる者と持たざる者との階級的軋轢は、日本の社会の安定的基盤をゆるやかに崩壊させようとしている。

 

寄る辺のない老人たち、幼くして死ぬゆく者、疾病や器質など生まれながらに心身に障がいを蒙った者たちに加えて、労働、教育の現場における激烈なさまざまな生存競争の敗者たちや落後者たちの大群が、自分を能天気にも社会的な勝ち組だと思っている「普通の人々による普通の社会」の安寧を脅かそうとしているのである。

 

むかしむかし、私は社会の最下層に沈む弱者たちが大連合して、権力の最上部に君臨する富裕階級の者どもと角逐する話を小説にしようと踏ん張っていたのだが、前者が戦いに勝利し、にっくき後者を血祭りに上げようとしたところで、強烈な吐き気に襲われて擱筆し、それきりになってしまったことがあるが、弱者がその特性を生かしながら強者に勝利するのは至難の技であると思った。

 

弱者は、強者が持たない孤立無援性、他者の痛みを感じ取ることができる想像力や優しさを持っているのだが、彼らがその孤立無援性を捨てて団結し、例えば武装蜂起の挙に出て強者の1人を殺戮した瞬間に、彼らは他者への優しさも想像力も幣履の如く投げ捨てて、殺意と憎悪が渦巻く「ただの強者」の位置に転落してしまうのである。

 

しかしよく考えてみれば政治的経済的社会的な強者もひとたび大病などを患って生物的動物的な事あればたちまち不幸のどん底に突き落とされて弱者中の弱者となり、その弱者が事あって一気に成りあがって最強の者となることすらあるのだから、ここでいう強弱の違いは相対的な次元の話かもしれぬ。

 

最終的には精神の王国でつねに魂の平穏を愉しむことが出来る人間を、絶対的な強者と称するのかも知れない。

 

いずれにせよこの2人の長い対談は、そういう地点で大停滞し、洞ヶ峠で昼寝を決め込んでいた私を叩き起こし、もういちど社会の多数派となりつつある弱者たちの、弱者たち自身による、「弱くて、脆くて、けれども楽しくて、けっして勝たない社会づくり」へのほの明るいヴィジョンを投げかけてくれたのであった。

 

 

なにゆえに人はそこまで強くなれるのかおのが弱さを抱きしめるから 蝶人