蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

最近気になる日本語


○敬愛なるベートーヴェン

今日の夕刊に「敬愛なるベートーヴェン」という映画の広告が出ていた。キャッチフレーズによれば、「第9誕生の裏に耳の聞こえないベトちゃんを支えた女性がいた」」という楽聖物語らしい。

まだ見ていないのでその内容はともかく、気になったのはその題名である。

「敬愛するベートーヴェン」とはいっても、「敬愛なるベートーヴェン」とはいわないはずだ。それをいうなら、「親愛なるベートーヴェン」だろう。

この映画の字幕翻訳はベテランの古田由紀子、字幕監修は音楽学者の平野昭、字幕アドバイザーなる者に、大汗かくけど下手くそ指揮者の佐渡裕という豪華絢爛たる(豪華絢爛なるとはいわない!)専門家がついていながら、肝心かなめの題名に奇怪な日本語をクレジットするとはどういうわけだ!? 

それともいよいよ私の頭が狂ってきたのだろうか?


○応援よろしくお願いします!

応援するのはこっちの自由だろ。

応援は、選手にリクエストされて、したりし、なかったりするものではないだろ。

おマエさんもいちおうスポーツのプロなんだろ。プロならプロらしく自分だけの言葉で語り給え。
 

○よろしくお願いします!

まだ言ってるのか。

それって挨拶なの? 挨拶なら「こんにちは」でいいでしょ。

いったい、何を、どう、よろしくして欲しいの? 

それをちゃんとした日本語で言ってみなよ。


○もう一度盛大な拍手をお願いします!

今度の修正日本国憲法の第9条に書いてあるでしょ。

拍手はいかなる場合にもこれを強要してはならない、って。


○元気をもらう 癒される

いま流行の?「元気をもらう」とか「癒される」という言葉を軽々しく多用する人は、じつはその言葉を挨拶代わりに使っていて、本当に元気になったり、癒されたりはしていないのだと私は思う。

他者と自分の関係をまるでロッテのバレンタイン監督が大好きなチュウーインガムのようにイージーに接着しようとしているだけだと思う。

そもそも元気はなるものであって、もらうものではない。元気は他人に与えるものであって、むやみやたらと「もらう」ものではない。

しかし行きずりのティッシュペーパーなどのようにたまたま「もらってしまう」こともあるだろう。

その場合は「元気をもらった」とはいわない。正しくは「元気づけられた」という。

もちろんあなたが本当に「元気をもらった」と思っても一向にかまわない。その恩人に対して心の中で深い感謝をささげるべきだ。しかしその奇妙な日本語をミキシィ日記に書いたり、まして人前で公然と発音してはならない。

この表現は「元気」という日本語の価値をおとしめ、自分を粗野な人間のように思わせてしまう下品なものの言い方であるということを知るべきだ。

「癒される」という言葉もそうだが、「元気をもらう」と言ったり書いたりした瞬間、あなたは恥ずかしくならないだろうか? もしそうなら、

あなたって意外と恥知らずな人なんですね。