蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

鎌倉ちょっと不思議な物語 第十一話


小さな橋の上で



数年前、近所に突然ウクレレの店ができた。

ウクレレといえば牧伸二高木ブーだが、店長さんはそのいずれでもなく50代半ばの赤ら顔のおじさんだった。

Tシャツに短パン姿でパイプをくわえながらハワイアンを弾いたり、透明なビニールハウスの中でウクレレを木から作っていた。店ははじめはガラガラだったがそのうち東京ナンバーの車でかなりのお客がやってくるようになった。おじさんは彼らにウクレレの製作を教えていた。

3年前の7月中旬の午後7時過ぎのことだった。私がこのお店の左側を入った所にかかっている小さな橋の上で自転車を停めてきょろきょろしていると、そのおじさんが「何をしているんですか?」と声を掛けてきた。

私が「ヘイケボタルを探しているんです」と、答えると、「まさか私の家の裏でホタルが出るなんて!」とおじさんはびっくりしたようだった。そしてパイプを口からはずして、自分が鎌倉の海岸の傍で生まれ育ち、少年時代にはホタル狩りをしたこともあると語った。

私が「昨日の夜もこの橋から3匹見たんですよ。でも今夜はいないですね」と言うと、彼は「もう鎌倉にはホタルなんていなくなったと思ってました。これはいいことを聞きました。今日からしっかり観察しますよ」と、大喜びであった。

私は次の夜も、そのまた次の夜も、ウクレレ屋の後の小さな橋の上で自転車を停めて滑川の上流と下流を眺めたが、それっきりホタルは現れなかった。パイプのおじさんにも会わなかった。

それから1年が過ぎて、去年の7月上旬の午後7時過ぎのことだった。

私はいつものようにこの小さな橋の上に立っていた。

その日はいつもより多い6,7匹のヘイケホタルが、滑川の上にはらはらと舞う姿を私は陶然と眺めていた。

するといつのまにかウクレレ屋から一人の若い女性が出てきて、「ああ奇麗だこと」と言いながらホタルを眺めている。そこで私が思い切って、「今日はこちらのお店のご主人はいらっしゃらないのですか。あのパイプのおじさんは?」と聞いてみると、彼女は「今年の5月に突然亡くなってしまいました。あんまり急なことだったのみんなびっくりしてしまって」と、実に意外な訃報を私に伝えた。

彼女がおじさんの娘か親戚か店のスタッフなのかは分からなかったが、急死のショックは相当大きいようだった。私もあんなに元気そうだったおじさんが、と、信じられない思いだった。

私が、「おじさんにこの橋にホタルが現れることを教えたのは、私なんですよ」と言うと、彼女は、「去年の夏は毎晩ここから眺めていましたがとうとうホタルを見ることができなかったので、今年こそはと楽しみにしていたんですが…」と言い掛けて、どうやら涙を隠すためであろう、急いで店の裏の部屋へ姿を消した。

それから私は、また小さな橋の上から暗闇を自由自在に乱舞するヘイケボタルに見入った。

そしてそのホタルのうちの1匹が、あのパイプのおじさんのような気がして思わず合掌したことであった。