蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の老人の話(5)


前回までのあらすじ
母親の眼病を治すために、京都の病院にやってきた主人公は、病院長主催の回復祈祷会に出席する。そして人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたのだった。


このご祈祷のあとで、郷里の綾部から父が来よりました。

そして、このとき、老院長はんは、父に向かって、「ひとつ一か八かの治療をやってみよ思うんやが」というて父の承諾を求め、その治療が行われましたんや。

その治療ちゅうんは、なんのことない注射器の針を目尻の少し上のあたりに差し込んで、ぎょうさん血を採ったんですわ。どす黒い血いが、ぶっとい注射器にいっぱい採れました。

その翌日のことでした。いつものように私が母を便所に連れて行くとき、病室から明るいところへ出た途端、母は私の肩から手を離して

「これ、畳のフチやないか? これ、障子の桟やないか?」

というて、畳を撫でたり、障子に触ったりし始めました。

「ああ、目が見える! 源や! わしは目が見え出した! うれしいことじゃ! もったいないことや!」

と、まるで気違いのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのでした。

それから畳の上に身を投げ出し、手のひらをいそがしゅうこすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのでした。

この騒ぎに病院中の人たちが集まってきました。

みんな百万遍の数珠を回してくれた人たちです。母の目が見えるようになったと聞いて、誰も彼も自分のことのようによろこび、言い合わせたように一同その場にひれ伏して観音さんに奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のようにわたしたち母子のうえに降り注いできました。

母の眼は、それからぐんぐんよくなり、おおかた元通りになり、それからの生活に差支えがないくらいの視力を取り戻すことができたんです。

私はこのときにお陰を受けた観音さんや親切にしてもろうた大勢の方々のご恩は、絶対に生涯忘れることはできまへん。

十二坊の病院はいまはもうありまへん。あの辺はもうすっかり変わってしもうて、いまでは相当の繁華街になっとりますが、観音様は少し位置は変わってしまいましたが通りに面していまでも立っておられます。

その後成人してから、私はこの近所にネクタイ工場を建てたりして、いろいろご縁が深い土地なんです。現在はクリスチャンの私ですけど、今でも通りすがりには少しくらい回り道しても観音様にお参りしとります。

馬場冶右エ門さんは舞鶴辺の人と聞いとりましたが、森という所がどうしても分らんかった。

ところが去年ある人から東舞鶴の森ノ宮町が昔は森ゆうとったちゅう話をきいたんで、さっそく行ってみましたら、お宮の出口に馬場という豪家があった。

訪ねてみたら当主の亀吉さんがおられて、「祖父が冶右エ門で、あなたがた母子の話もよお聞かされておりました」とのこと。私は後日改めて手土産を携えて再び馬場家をおとずれ、仏前に手を合わせて旧恩に深く感謝を捧げたことでした。

しゃあけんどただ越前の人とだけ聞いとった川合おえんさんの住所はとうとう分りまへんでした。