蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の老人の話(16)

第三話 貧乏物語その3

これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。

私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。

それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。

思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。

そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。

これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。

そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。

しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。

そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。

行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。

それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。

仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。

また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。