蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

暴かれた秘境


勝手に東京建築観光・第12回


ある年の夏の夕べ、私は千代田線の乃木坂を降りてS山紀信氏のアトリエを訪れた。

仕事の打ち合わせを終えた私が、アトリエの前の小路をぶらぶらと歩いていると、S昌夫という歌手が経営しているスタジオがあった。

そこを過ぎてさらに進むと、瀟洒な煉瓦色の低層住宅が静まり返っていた。

鬱蒼とした森に囲まれたその一画は、楠や椎の頭上からセミの鳴き声が響き渡り、舗装されない地面には木漏れ陽がゆらゆらと揺れ、群青色の夏の空には白い大きな雲が浮かんでいた。

静かだった。そして、誰もいなかった。

住宅群の入り口にはI倉建築事務所と書かれた門札があり、無人のエントランスを直進すると、同じ建築仲間のビッグネームI氏の名前が記されていた。

現代思想家としても知られるこの孤高の天才は、誰もがうらやむような東京に残された最後の秘境に住んでいたのだった。

それから十数年が経った。

ある日突然、クレーン車がうなりを上げてこの緑の館の隣接地に突入し、昼夜をわかたぬ突貫工事が始まった。当世流行の商業施設の建設が開始されたのである。

しかし秘境に住む二人の建築家は、このプロジェクトには招聘されなかった。

けれども彼らの最大のライバルが指名され、彼らの最愛の地からわずか数十メートルの地点に奇怪な両翼の鉄板長屋をこしらえるにおよんで、さすがに温和な紳士も内心の憤りを隠すことはできなかっただろう。

『この建築意匠は、そもそもは私の発想ではないか。それなのにどうして君が指名されるのだ? 私ならもっと素晴らしい建築を創造できたはずだ。君の東京案よりも私の福岡案が幾層倍も優れていたように……。いや、そんなことなどもはやどうでもよい。私の終の住処を、君たちはどうして白日の下に曝け出し、暴きだすのか? おお、建築家よ、呪われてあれ! かくも因果な職業がこの世にあるだろうか?』

東京ミッドタウンの「21-21デザインサイト」の前に立つと、私にはI氏のこんなうめき声が聞こえてくるような気がするのだ。