蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

♪日本語で歌う「第9」演奏会を聴く


♪音楽千夜一夜第29回

最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。

冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。

その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットオーマンディムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。

例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。

それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。

最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。

あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。

私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。

老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。

指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館


グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ