蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ジョン・アーヴィング著「また会う日まで」を読む


照る日曇る日 第80回

05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。

しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。

父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。

中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。

そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。

気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。

余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
 
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!

ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。

イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊