蝶人戯画録

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五味文彦著「王の記憶」を読む


照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回


京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。

発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。

後に鎌倉の鶴岡八幡宮放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。

それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。

またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。

また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。

すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。

頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)

このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。

鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。


そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。

都市   原理    基軸   性格
京都   中央    ヒト   政治
博多   境界    モノ   港湾
奈良   異界    ココロ  宗教

これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。

では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。

♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊