蝶人戯画録

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モーツアルトの降臨


♪音楽千夜一夜第31回&鎌倉ちょっと不思議な物語96回  
プラハの国立劇場オペラは、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」や私が偏愛する「皇帝ティトスの慈悲」を初演したオペラハウスとしても知られている。先夜私は、この中欧の凡庸とは言わないまでもローカルな、ベテランのオケをバックにだいぶとうのたったまあ2流から3流の歌手たちが奏でる「フィガロの結婚」を聴きに行った。

指揮も演奏も演出も歌手たちも私の知らない人ばかりだったがまずまずのできばえで、小沢やアーノンクールの指揮と違ってモーツアルトの音楽を聴くにはまったく問題はなかった。4幕のゴルフのシーンや虫のすだきをBGMで聞かせる演出は良くなかったが、美しい色彩のドレープの衣装がことに印象的だった。

ご存知のように、この曲の最大の聴き所は序曲と終曲にある。そしてあらゆるオペラのうちで最もオペラ的な序曲がこれである。
「さあお待ちかね、皆の衆これから胸がわくわくするような素敵なオペラが始まるよ」、といわんばかりの冒頭の数小節が、流麗な旋律、沸き立つようなリズム、そして色彩豊かなハーモニーに乗って繰り広げられるやいなや、私たちの心は早くもモーツアルトの音楽のとりこになってしまうのである。

この序曲だけで優にオペラの全曲に比肩するだろう古今随一の名曲を、モ氏は初演間際に綱渡りのように書き上げたというのだから驚く。おそらくプラハに急行する馬車の中でペンを走らせたのではないだろうか、と私はメーリケが「ドン・ジョバンニ」の初演のためにプラハに急ぐシーンから始まる「旅の日のモーツアルト」を読むたびに思うのである。
ちなみにこの本ほど読む人の心をしあわせにしてくれる書物を私は知らない。そして読むたびに彼のピアノ協奏曲第15番の第3楽章のアレグロが胸いっぱいに高鳴るのを覚えるのだ。

モ史の最初と最後の交響曲がド、ミ、ファ、レの4つの音を使っていることは有名だが、その夜私は第2幕の終わりの有名な4重唱、5重唱、6重唱、そして大団円の7重唱の掛け合いのところで彼の「レクイエム」で使われた旋律が鳴り響くのに気づいてわが耳を疑った。長調なのに短調、短調なのに長調と聴こえ、喜劇という上部構造の下部でひそかに同時並行的に進行する悲劇という重層的な音楽ドラマは、天才モ氏だけが書くことができた。

しかしいつも思うのだがフィガロの音楽は猛烈な速度で進行するのに、その演奏時間は長い。この夜は2幕の途中などで相当カットしていたがそれでも20分の休憩を挟んで160分間かかり通常は優に3時間を超える。映画「アマデウス」では、フィガロの音楽が長すぎる、音符が多すぎると感じた皇帝ヨーゼフ二世があくびをもらしたので、かのサリエリがしめたとほくそ笑むところが描かれていた。

実際フィガロの結婚話を描いたこのたった1日の朝から夜までの喜劇を描いたポーマルシェの芝居の原作もダポンテの台本もけっして長いものではない。にもかかわらず本来もっと簡単に終わるべきオペラ・ブッファの1幕から2幕、そして3幕までを、モ氏は延々と音符の限りを尽くして引き伸ばした。

何のために? 長丁場に終止符を打つ第4幕大詰めの最後の最後のフィナーレに万感の祈りを込めるためである。

封建時代の遺制である初夜権を放棄したといいながらまだフィガロの許婚スザンナに未練たっぷりな封建貴族のアルマヴィーヴァ伯爵とその従者フィガロの新旧両勢力の権力闘争を色恋沙汰を交えて描くこのどたばた悲喜劇的革命劇は、保守的で頑迷な伯爵の妻への謝罪のシーンで終わる。

第4楽章のスザンナのアリアで泣きに泣かせ、伯爵邸の夜の庭を舞台に展開されるどんちゃん騒ぎをあおりに煽り立てたオーケストラが、夜のしじまの中で一瞬全休止するとき、世界は深い闇に閉ざされ、地球はそのゆるやかな回転を突然停止する。いまやなにか神聖な時の時が訪れたことを私たちは予感する。そして私たちはモールアルトの音楽とともに、あるいはフィガロの翌年に書かれるであろうドン・ジョバンニとともに、「世界の奥底、宇宙の果て」にまで降りていくのだ。

そのとき、伯爵夫人ロジーナの前に片膝ついたアルマヴィーヴァ伯爵は、

Contessa,perdonno.(許してください伯爵夫人よ)

と厳かに歌う。すると夫の心がもはや自分を去って遠くに行ってしまった孤独と悲しさに耐えながら伯爵夫人は

Piu docili io sono
E dico di si. (素直な私ですから「はい」と申します)
とけなげに答える。

けれどもそれは夫への単なる許しの言葉ではない。人間が、生きとし生ける者たちが犯すすべての罪科に対する大いなる許しの声である。その声はその罪を胸に懐くすべての者たちの奥の奥にまで届くモーツアルトの声であり、地上で争い、憎み殺しあう者たちへの「あらかじめの許しの声」であり、こういってよければ宇宙からの、天からの声である。

私たちはこれに似た声をしばらくしてから聞くようになるだろう。世界に恒久平和を願うベートーベンの第9交響曲である。しかしシラーの歓喜の調べが高らかな直喩で歌われたのに対してモ氏の平和の歌はもっと低くもっと小さく、ほとんど聞き取れないくらいの隠喩として囁くように呟くように歌われる。それこそがモーツアルトならではの平和への祈りであり、人類と神と宇宙に向けて発せられたかそけき希望の歌なのである。
それがフィガロでモーツアルトがやりたかったただひとつの事業だった。

そうして幸いなことに私はその夜、その声を確かにこの耳で聴いたのだった。その夜モーツアルトは私(たち)の両肩の上にさながら音楽の精霊のように降臨したのである。
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん 亡羊