蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

照る日曇る日第90回

「だいたいでいいじゃない」というタイトルは悪くない、いや素晴らしいかもしれないと思ったのには理由があって、毎日のマスコミをにぎわせている政治、経済、社会などの話柄とそれを巡るとかく重箱の隅をつつくようなミクロの決死圏で、食うか食われるか、倒すか倒されるか、己が勝つかお前が勝つか、それでは負けたら腹を切るか、的な議論を目にしただけで疲労困憊してしまうすでに半死状態の私は、テロ特がどうなろうが民主が政権獲得に成功しようがはたまた失敗しようが、温暖化ガスが100倍排出されて朝青龍がモンゴルまで吹き飛ばされようが(私はこう平気で言い切れるくらいには排外的なナショナリスト兼国粋主義者だ)もうどうでもいいじゃないか、ミジンコ世界を逸脱して巨視的マグロ世界に悠久の時空の消長がうるわしく語られているのではないかと妄想した吉本氏と大塚氏の対談集であったが、結論としてはそうねえ中身は題名ほどには面白くなかったのであったが、これをしも羊頭狗肉とまで酷評するのは言いすぎであり、例えば吉本氏の「子供を殺された親が、もう俺は我慢がならねえから殺したほうの子供を殺しちゃう、って言って親がどっかで待ち伏せして刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ」という発言に対しては私は全面的に賛同するどころか、もし自分の子供がそういう悲惨な目にあったなら近代の法制度や正義がどうであれおそらく10中8,9そのような直接行動に出るだろうことを予感しているがゆえに「おお吉本、いい歳とってもちっとも変わっちゃいねえじゃんかよお」と思わずやんややんやの声援を送りたくなるし、「リストラされた会社員がやるべきことは、そのような事態をもたらした会社や経営者自体をリストラすることだ!」という斬新な切り口には思わずあっとうならされるし、(でも到底実行不可能だと思うけど)、明治以降のわが国の代表的知識人は柳田國男折口信夫であるが前者は所詮は随筆家に過ぎず、後者が日本語の祖先まで遡って「国語学編」で比較言語学を敢行しているのは凄い、と喝破しているところなぞはふむふむそういうものですかと拝聴できるが、ジャック・ラカンの受け売りで「女性はみな気ちがいであり、男性の本質は女性になることです」とうわごとのように口走ったり、「新約聖書のキリストがちょっと触ったらハンセン氏病が癒えたという箇所は信じきれないが、立てと言って手をかざしたら足萎えが立ったり、足腰の痛いのがなくなったというのは完全にありうると思っている」と語ったり、「麻原彰晃でもそれはできるでしょう」と断言するのみならず、「消費は生産である」と軽ーく強弁し、あまつさえ「農業がなくなったら天皇制はなくなる」とのたまうにいたっては「もう結構です、だいたいでいいじゃない」と思わずゴッホの絵のように黄色い装丁のこの本を遠くに投げやってしまったのだった。 正岡の子規が作りし月並みの句ほど世に好ましきものはない 亡羊