蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

大江広元の屋敷と墓


鎌倉ちょっと不思議な物語111回

大江広元(1148〜1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
 
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。

次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。

さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。

どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。

それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ〜ん。(中央写真)

千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)

ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう? 

それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。

ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。

お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。

♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊