蝶人戯画録

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荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読む


照る日曇る日第111回

東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。

苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。

東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。

外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。

駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。

かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。

♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊