蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

続・荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読んで


照る日曇る日第112回

東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。

では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。

彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。

東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。

東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。

東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。


♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊