蝶人戯画録

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五味文彦著「躍動する中世」を読んで その2


照る日曇る日第129回

昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。

京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。

中世人はことのほか童、子供を大切にした。

宇佐八幡宮八幡神東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義由比ガ浜石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。

頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。

白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。

鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。

1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。

一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。

宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗外戚得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。

武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。

中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。

鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。


♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋