蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

あるカミキリムシの死

♪バガテルop65

昼間榎の葉っぱにとまっていたいまでは希少種となったゴマダラカミキリが、午後道路で車に轢かれて死んでいた。私はその美虫薄命、諸行無常に哀れを感じ、終日心身が深い憂愁に閉ざされるのを覚えた。

とつくにのいにしえの死より、向こう三軒両隣の死にたての死、見知らぬ人間よりは最愛の虫や花や獣の横死に対して、激しく胸を引き裂かれるのは私だけだろうか。

すぐる大戦の膨大な死者に対してはかろうじて一掬の涙を注ぎ、平成の御世のちっぽけな駄犬や昆虫の死にかくも夥しい涙を流すとは、まことに不条理な話であるが、そこが神ならぬ身の至らなさ、情けなさ、往々にしてそういうけしからぬ事態が出来するのである。

もっと不思議でけしからぬのは、私が実在の人間や動植物の死に対するよりも、映画やドラマや小説の中に出てきた仮想人物に対して激しく喜怒哀楽することである。

ブランコを漕ぎながら♪命短し恋せよ乙女などと下手な歌を歌っている志村喬の虚構の死に対してあれほど激しく慟哭できるならば、なぜアウシュビッツ真珠湾や広島長崎や、戦艦大和やらガダルカナルの密林に消えた無数の人々の死に対して、もっと激しく嗚咽し、もっともっと大量の涙を流さないのか? それが物事の真実と釣り合った人間らしい感情の適切な発露であるはずだ。

にもかかわらず、私は歴史上の巨大な悲劇に対してはいちじるしく涙を惜しみ、空想上の、ある意味では笑うべき瑣末な悲劇に対しては、惜しみなく浪漫的な感情を放出してやまない。なんという情念の鈍感さ。 なんという理性と感覚のアンバランスであることよ。

いずれにせよ、私(たち)はみずからの動物脳から発する喜怒哀楽の感情、とりわけ涙という塩辛い水分を信用したり、過大な意義を与えてはならない。

現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや 茫洋