蝶人戯画録

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山田邦明著「戦国の活力」を読んで

照る日曇る日第154回

小学館の日本の歴史第8巻である。戦国大名の誕生から大坂落城までの150年間を駆け足で描く。
鎌倉関連では永正11年1514年に日蓮宗本覚寺の陣僧役と飛脚役と諸公事が免除されている。坊主は意外にも健脚の者が多く、戦国大名は僧侶に祈祷をはじめとする様々な任務を与えていたのである。
鎌倉材木座の光明寺は良忠によって創建された浄土宗の大本山であるが、戦国時代のはじめごろ観誉祐崇という傑物があらわれ近隣の諸国を歩きながら信者を獲得し、1代のうちに30あまりの寺院を創建した。明応4年1495年には宮中に召されて光明寺を勅願寺にするとの綸旨を与えられた。

京の本能寺は天正10年1582年信長が暗殺された寺として有名だが、ここは日蓮宗勝劣派の拠点で、一致派の他の寺社とするどく対立していた。日蓮宗の経典は法華経である。全28の品からなる法華経は前半の14品が迹門、後半の14品を本門と称するが、迹門迹門の優劣が甚だしいと考えるのが勝劣派、迹門にもそれなりに価値はあると評価するのが一致派で、本能寺は前者の代表選手だった。
法華経のもっとも壮麗なシーンは本門冒頭の「従地湧出品」である。弟子達が「この有難い経典を護持することをお許しください」と頼んだ時、世尊が「この世には無数の菩薩たちがいて彼らこそがこの地においてこの経を護る使命を持つのだからこの経を護持する必要はない」と語るやいなや、突然引き裂かれた大地の奥から幾百億千万の求道者たちが金色に荘厳された菩薩となって地中から湧き出てきて虚空に聳え立つのだが、法論の問題箇所は、ここで世尊がいうお経とはなにを指すのかという点であった。本能寺派は、この経とは本門冒頭の「従地湧出品」以前の「迹門」全部であると主張したが、その後この説に同意できない一致派との間で長く法論が続いたようである。

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