蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

「七人の侍」再見


照る日曇る日第161回

このあいだBSでやっていたのでまた見たが、さすが黒澤の名作、なかなか面白かった。

以前見たとき宮口精二演じる久蔵が野武士の棟梁から種子島で撃たれて死ぬ。そのとき倒れながら投げつけた刀が刺さって頭目は絶命した。と長い間思っていたのだが、実際にはそんなシーンはなかったのでガッカリした。あれは私の幻影だったのだろうか。しかし、しかとこの目で見たはずだ。黒澤の演出よりも、私の幻案のほうがずっと優れていると思うのだがどうだろう。

村娘津島恵子に惚れて初体験した木村功は、ラストで大いに迷う。武士を捨てて村に残るか、娘を捨てて武士にとどまるか。その去就を描かずに映画を終わらせたところがオシャレである。また二人のラブシーンはスタッフが手植えした花々で美しく彩られており、豪雨の大決戦と見事なコントラストをなしている。

しかし欲をいうなら、七人の侍のうち最初に死ぬ千秋実と二番目に死ぬ稲葉義男の容貌がなんだか似ているのは良くない。もう少し別の顔を用意してほしかった。

味方は七人、敵の野武士は四〇人。七人はその四〇人を全滅させたが志村喬加東大介木村功を除いて四人とも火縄銃で撃たれて死んだ。敵が所有していた銃は全部で三丁。うち一丁は宮口が、もう一丁は三船敏郎の菊千代が敵から奪っているので、残りのたった一丁が三名の味方の命を奪ったことになる。

宮口が単身森の敵中に忍び込んで銃を奪ってきたときには賞賛されたのに、三船がもう1丁を奪って帰還したときには、軍律違反だと志村から非難され、持ち帰った火縄銃はその場で打ち捨てられて顧みられなかった。もっと敵の飛び道具にきちんと対処しておけば愛すべき主人公たちをむざむざ殺されることにはならなかったはずなのである。もっとも一九五四年度のヴェネチア映画祭で銀獅子賞はもらえなかっただろうけど。

しかし私は、ここに七人の侍のみならず武田勝頼、そして後年の日本の軍隊にも見られた「飛び道具(近代兵器)の軽視と蔑視」という懐かしい土着のにおいをかぐ。ノモンハンの悲劇や万歳突撃、戦艦大和の悲壮な最期につながるあの前近代的な鍋釜土着思想の残滓を。


♪たった一個生りたる西瓜食べにけり今日から短期入所する息子と共に 茫洋