蝶人戯画録

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上野都美術館で「フェルメール展」を見る


照る日曇る日第172回


濃い金木犀の匂いに誘われるように上野公園を歩いて「フェルメール展」をのぞいてきました。会期ももうすぐ終わりそうだし、なんと本物を7点もまとめて見られるそうだし、連日のように新聞が特集しているので、急いで駆けつけてはみたものの、残念ながら先日の「ピカソ展」のような深甚な感動とは無縁のさめた出会いであったと言わざるをえません。

 フェルメールは同時代の同傾向の画家に比べるとはるかに技巧にたけ、現代人の感性に訴えかけるようなモダンな表現ができた才人でした。それは外部からの光線の取り入れ方や光と影の鮮やかなコントラスト、劇的で謎めいた人物の配置、濡れたように輝く色彩(たとえば「手紙を書く婦人と召使」の朱色のスカート)の熟達した取り扱い方に顕著にあらわれています。

また彼は、映画のストップモーションの手法のように、近世オランダの市民たちを主人公とした長い長い映画のある場面を突然停止させ、その一瞬をまるで一枚の写真のように忠実に再現しようと試みました。

その結果、タブローはまるで「永遠の相の下」に引きずり出された一瞬の静謐と緊迫感、それゆえのするどい美しさを湛えるようになったのです。宗教画に似たある種の祈りと敬虔な感情がそこからもたらされます。世界中の人から愛される秘密はそこにあるのではないでしょうか。

しかし、絵画に生き生きした生命感と、あわよくば魔的な時空への陶酔をもとめてやまない私にとっては、そんなフェルメールの天下の名作も、シュトルムウントドランクなきただの「お絵かき」にすぎません。美術史にとって多少の意味があるとしても、私たちの生きた芸術にとってはなんの価値もない、とっくの昔に死んだ絵なのです。まこと猫に小判とはこのことでしょう。
金曜の遅い午後のこととて人影もそれほど多くはない会場を、私はわずか一〇分で足早に立ち去ったことでした。


フェルメールよりも美しきはフェルメール展の上空のあかね雲 茫洋