蝶人戯画録

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網野善彦著作集第11巻「芸能・身分・女性」を読む


照る日曇る日第201回&ふあっちょん幻論第24回 

婆娑羅(バサラ)と呼ばれる異類異形の風体の輩の源流は、平安後期の「江談抄」に「放免が分不相応の美服を着るのは非人のゆえ禁忌を憚らざるなり」とあるをもって嚆矢とする。金銀錦紅の打衣、鏡鈴のごとき風流、派手な模様の狩衣を着て異様な棒(鉾)を担ぎ、大きなひげをはやした放免(検非違使の部下)は、非人であるがゆえに俗世界のタブーには触れないとされた。

しかしこのバサラは頻々たる禁制にもかかわらず博戯、双六、飛礫の流行とあいまって悪党の進出とともに急速に浸透し、その悪党どもがついに後醍醐天皇と結託して都を制圧したのが建武新政であった。彼らの圧倒的なエネルギーは公家・武家の政治を根底から揺り動かし、バサラな非人の綾羅錦繍の装束、金銀珠玉のファッションは、小舎人童、大童子、牛飼童子、猿楽田楽法師、供奉人までも虜にしたのである。

またバサラも着用した「柿の衣」は主に中世後期の無縁の非人、とりわけ癩の病人々の衣装として定着していった。癩の病といえばいまでいうハンセン氏病のことだが、これに犯された兄弟子の養叟に対する弟弟子一休の驚くべき罵倒の言葉を忘れるわけにはいかない。ここには後年にいたって顕在化する障碍者への卑賎視がうかがえる。


一揆の衣装には世界的に赤と白が使われてきた。「一遍上人絵詞伝」に登場する乞食非人の指導者は、白い覆面・頭巾をつけて六尺棒を持ち、赤ならぬ柿色の僧衣を身にまとっているし、明応5年近江の馬借一揆の柿帷衆は、全員ふだん彼らが身につけていない柿色の帷を着て近江から侵入した斉藤妙純の軍勢と戦った。

江戸時代の百姓一揆では困窮した百姓たちは蓑・笠をつけ俵を背負い、非人の姿をし、妻子には地頭所の前で乞食をさせて都の強訴に旅立った。差別された最下層の身分に自らをおくことをためらわない不退転の決意をそこに示したのである。

柿色の衣は山伏の衣装でもあり、鎌倉時代の義経も、南北朝護良親王も日野資朝も山伏姿で各地を逃亡した。山伏は山の霊力を身に備えた聖なる存在であり、聖なる非人でもあった。彼らがまとった非人性を象徴する柿色の衣は平安、鎌倉、室町、江戸時代にも連綿と伝わり、歌舞伎の江戸三座に引き幕の中央にはつねに柿色が据えられ、遊女屋の暖簾も柿色であった。

しかしその反面、江戸時代の奉行の足軽たちは柿色の羽織を着て街を見回ったので、「柿羽織」と呼ばれており、彼らが腰にさす鼻捻という棒は江戸の非人頭も持っていたそうだ。柿色の象徴的機能の別の面を物語るといえよう。

聖にして非なる柿色ファッションカラーは現代にも流れており、歌舞伎一八番の「暫」の鎌倉権五郎景政の衣装は、柿色地に三升大紋であり、その権五郎役をお家芸とする市川団十郎家は柿色を先祖代々の家の色と定めている。云々。

飛礫、博打、旅する女性、非人を真正面から論じた本巻は、疑いもなくここまで読み進んできた網野善彦著作集の白眉である。

♪俯いて地面に何を書いていたのか己に罪なしと信ずる者より石を打てといいいし人は 茫洋