蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

クッツェー著「鉄の時代」を読む


照る日曇る日第202回

南アフリカのケープタウンに住む元ラテン語教師の70歳の女性がアメリカに住む娘に宛てた長い遺書である。彼女はガンに冒されていて余命いくばくもないが、アパルトヘイトのただなかにあるこの極南の地にあって、いっけん自由な、そして孤独な生活を強いられている。

トランジットしては通過して行く者たちのように彼女の家を訪れるこれも孤独で心を固く閉ざした男や通りすがりの女、そして彼女の子供たちがいる。
誘蛾灯にさそわれて飛んできた蛾のようにいつの間にか老女の周りに集まってくる見知らぬ赤の他人たち。その醜悪で悪臭を放つ気味の悪い連中を、われらが老いたるヒロインはあたたかく迎え入れ、非道な国家権力や警察の暴力によって日常生活の平安を徹底的に脅かされながらも、容易に他人の善意を信じようとしない彼らと誠実に向かい合う。

残された日が短い彼女にとって、この世におけるゆいいつの救いとは、たまさかに彼女の懐に落ち込んだ任意の男、限りなく胡散臭く、薄情で誠実さのかけらもない1人の中年男をひたすら信じきること、その1点に賭けることなのだ。

彼女にとってこの悲惨で絶望的な争闘の「鉄の時代」のあとに来るべきは、人類が友愛でゆるやかに結ばれるはずの「青銅の時代」であり、それに続く「銀と金の時代」なのである。おお、なんと勇気凛々の超楽天主義者であることよ!

それゆえ、小説の掉尾をあえかに彩る2人の抱擁は、少しく感動的ですらある。


♪遥かなるエルドラドの輝きは幻かわれら冷え行く鉄の時代に生きる者 茫洋