蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

西暦2008年茫洋読書回想録


照る日曇る日第212回

 歳末につき、08年に私が読んだ本の中からベスト8冊を挙げておきましょう。

まずはわが敬愛する歴史家網野善彦の著作集(岩波書店)から「第5巻蒙古襲来」と「第11巻芸能・身分・女性」の2冊。いずれも日本中世の深奥に血路を切り開く知の冒険は身震いするほど感動的です。ただ情報や資料を客観的に分析して要素還元式レポートを書いていればそれで良しとする学者と違って、彼には彼独自の不逞な志があり、それが私を魅了するのだと思います。   

 「日本人は思想したか」(新潮文庫)は梅原猛吉本隆明中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書です。今から10年以上前の対談ですが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値があると思います。

吉田秀和「永遠の故郷-夜」(集英社)は、音楽ファン以外の人にもお薦めの1冊。小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆です。

 今年は小島信夫の本をかなり読んだのですが、いずれも深い感銘を受けました。
「菅野満子の手紙」(集英社)では、作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとしています。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことはしょせんは絶望的に不可能なのですが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かけるのです。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのですが、そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくるのでした。

 森見登美彦著「有頂天家族」(幻冬舎)のエネルギッシュなエンターテインメントには脱帽しました。
かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていくのです。血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって珍しいのではないでしょうか。

次は川上弘美の「風花」(集英社)です。そんじょそこいらのどこにでもいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置してしまう。これこそ当代一流の文学者の凄腕でしょう。

続いては、私の尊敬するマイミクさんでもある新進気鋭の思想家、雑賀恵子さんの新著「エコ・ロゴス」(人文書院)に瞠目しました。「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら、私たちを未踏の領域に導いていきます。

さて、今年はずいぶん遠ざかっていたドストエフスキーを久しぶりに手に取りました。話題の光文社版ではありません。手垢のついた米川版です。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのです。

 「カラマーゾフの兄弟」(昭和29年河出書房版)の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられません。それは愛と許しと世界の平和を願う音楽です。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でているような気がしました。

私にとって、本を読むということは、毎日ご飯やパンを食べるようなものです。食べるはしから排泄していって昨日の朝は何を食べたのかすら忘れてしまう。これではあまりに健忘症ではないかということで06年の7月から読書覚書をつけるようになりましたが、さきほど今年読んだ本を数えてみたらわずか90冊。年々気力体力視力が衰えてくるので消化する本の数も落ち込んでいくのです。

しかし読むべき本の数は年々積み上がります。晩年の中原中也がいうたように、量より質、1冊1冊を一期一会、最後の晩餐とみなして精読し、壊れゆく脳内の記憶を死守していきたいと願っている次第です。


♪国も人も三割縮む年の暮 茫洋