蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ベルンハルト・シェリンク著「帰郷者」を読んで


照る日曇る日第215回


この小説には多くの人物が登場するが、そのうちの多くの者は長い旅行や召集されて出かけた戦争から帰国して懐かしい自宅の戸を叩くと、出迎えた妻の背後に見知らぬ男が怪訝な顔をして突っ立っているのだった。

すべては「帰郷者」という言葉に内在するイメージから発想されている。

トロイア戦争から帰郷したイタカの王オデュッセウスを迎えてくれた従順な妻ペネロペの傍らには、夫に代わる新しい男性はいなかったが、多くの求婚者たちを皆殺しにしたあと、オデュッセウスはいずこへともなく姿を消してしまう。

余儀なくされた放浪にせよ、自発的に選んだ逃避にせよ、男にはたえず所与の現実から離脱してどこかここではないどこかへと離脱したい希求に駆られるのではないだろうか。そして男がそうであればなおさら女も。

考えてみれば、漱石も鴎外も帰郷者の仲間であった。帰郷してみるとそこに冷酷無比な現実が待機していてその悲惨な現実を凝視しながらあたかも死体を埋葬するがごとく傷だらけの痩身を地中に生きながら葬ることが、彼らにとってのその後の生であった。

しかしそのような我が国における帰郷者の末路を察知していたがゆえに、かの四迷は放浪者としての運命を受け入れて勇躍北の国に旅立ち、その身は儚く南海の露と消えたが、その魂魄は未完の帰郷者として世界の海を永遠に彷徨っている。

この小説では、縦糸横糸実にいろいろな因果の物語が縫いこまれていて暇な読者をあの手この手で楽しませてくれるのだが、戦前はナチの伝道者、戦後はアメリカの構造主義的心理学者にして稀代のペテン師を父に持った主人公の帰郷は、幸いにも温かな抱擁で迎えられる。なかなかにおめでたき結末というべきであろう。

もとより渾身の力作と賞賛するにやぶさかではないが、しかし君はいったい何のためにこの数百ページを書いたの? 大汗かいての猿回しを終えて、ちっとは虚しくないのかい? ドイツ文学なのだから、もそっと高雅な趣があってもいいだろうに。

 ♪自分探しなぞというありあわせの言葉を用いて己の営為を規定しようとするそのお粗末さ肌寒さよ 茫洋