蝶人戯画録

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梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その1


照る日曇る日第229回

日本書紀によれば秦の始皇帝の子孫と伝えられる秦氏は、応神天皇の14年に百済より渡来し、優れた養蚕技術で仁徳天皇の御代に素晴らしい絹織物を生産したために「波陀」、雄略天皇の時代には、「うずまさ」の姓をたまわり、現在広隆寺がある葛野を拠点に京都盆地全体で隆盛を極め、京都文化の基礎を作ったといわれている。

現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの偉大な一族の末裔である。ちなみに私の丹波の郷里は古代からこの秦氏の一大根拠地であり、偉大な養蚕家にして基督教者、波多野鶴吉翁が創立された郡是製糸の本社もこの地にあった。

さて聖徳太子の政経ブレーンとして活躍した秦河勝は、太子一族の没落後、藤原鎌足の陰謀によって流罪の身となり「うつぼ舟」に乗って西海を漂い、播磨の国坂越に漂着し死後は大荒大明神として祀られた。

河勝には3人の子があり、1人は武を、1人は楽を、もう1人が猿楽を伝えた。武を伝えたのは大和の長谷川党で、楽を伝えたのは河内の四天王寺の伶人、そして猿楽を伝えたのが円満井の金春大夫である。世阿弥の娘婿金春禅竹は、秦河勝から数えて40余代の孫であるから、秦河勝は能の創始者といわれている。

また著者によれば、秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、彼の庇護者であった聖徳太子もそれに影響されたと思われる。ペルシアのササン朝に保護されたネストル派のキリスト教(景教)は当時ペルシアから中国在住の中国人(秦人)に広まり、それが朝鮮半島を経由して日本の播磨の国坂越に上陸してそこにダビデ礼拝堂が建てられた。それが現在の大避神社で、古来から存する井戸はヤコブの井戸であったと考えられる。
 
なお著者は、このキリスト教伝来と同時に、あの謎に満ちた摩多羅神も輸入されたのではないかと考えているようだ。

キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人 茫洋