蝶人戯画録

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ポネル、ベーム、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴する


♪音楽千夜一夜第64回

これまでモーツアルトのオペラの演出はポネル、指揮はベームと長きにわたって信じ込んでいましたが、レーザーディスクからDVDに音源を移そうと久しぶりに「フィガロの結婚」を勢い込んで視聴してみたところ、やはり演奏も演出もいささか古色蒼然としていて、かつてあれほど牢固として確立していたはずのおのれの信念がかすかに揺らぐのを覚え、少し落胆しないわけにはいきませんでした。

もちろん古いものは古いなりに良いのですが、続々と登場する新しい演奏、例えば食えない狸爺のアルノンクールや嫌味な突貫小僧ハーディングなどの演奏に接し続けていると「こいつ軽佻浮薄な奴め」と思いつつもいつしかこちらの耳が馴染んできます。そして、「汚染された」その耳で過去の名演奏を聴くと、その古めかしさが厭でも耳につくのです。

しかし改めて名匠ジャン・ピエール・ポネルの演出に注目してみると、このライブではなく映画版のそれでは伯爵と従者フィガロの階級対立がじつに先鋭に描かれていることに気付きます。そして伯爵夫人を痛めつける伯爵の暴力的な攻撃の凄まじいこと。フィッシャー・ディースカウにブン殴られたキリ・テ・カナワの表情は痛々しい限りですが、こういうところがポネル以降の新進気鋭の演出家にどんどん取り入れられるようになり、ついには伯爵への意趣返しにケルビーノと寝てこの美少年を後年の色魔ドン・ジョバンニに成長させる手引を行わせるという先進的?な演出までもたらすようになったのでしょう。

細かいところでは、第2幕冒頭のこの伯爵夫人の哀切極まりないアリアの箇所などでは声は聞こえても映像の彼女は歌わず幸福であった新婚時代の回想シーンが写し出されるのですがこれはいささか通俗的に過ぎますし、終幕の夜の森のシーンでヘルマン・プライのフィガロを追おうとしてさかんにカメラがパンしたり、ズームしたりするのも気になります。

しかしカール・ベーム翁とウイーンフィルの面々の懐かしい演奏に耳を傾けると、テンポはとてもゆったりしていて、スザンナ役のミレルラ・フレーニなどの歌手たちも美しい旋律を心ゆくまで歌いあげており、ちょっとした間奏曲や行進曲のひとくさりにしても、「やはりモーツアルトはこうでなければ」という思いがしみじみとこみ上げてきます。

モーツアルト以降のえぐいロマン派の音楽と違って、モーツアルトではわずか数小節の間に恋が生まれ、死に、また蘇ります。なんの不自然さも違和感も説明もなしに。モーツアルトにおいては瞬間毎に人の世の真実が書き換えられるのです。その新鮮さに接したときの驚きがモーツアルトを聴くよろこびなのでしょう。

いずれにしてもベームも、ポネルも、名コンマスのヘッツエルも冥界の人となってしまいました。ミレルラ・フレーニはいまだ健在のようですが、かつて英国で華やかに活躍したキリは、クラシック界を去ってもうずいぶんになります。最近はいったいどうしているのだろう。それにしても、歌手の盛りは長いようでやはり今年の桜のように短いな、と思いつつ深夜のブラウン管を切ったことでした。


♪「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子 茫洋