蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

流れ出るわが涙よ


バガテルop102

以前ある若い女性が、「私のお父さんがね、娘が結婚するシーンが出てくるCMを見ていたら、もう泣いているの。いやになっちゃうわ」と語っていたのを聞いて、私は彼女の父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしていたのですが、その私自身が最近はひどく涙もろくなりました。ちょっとしたもののはずみで涙腺が緩んで塩辛い水分がにじみでるのです。

きのうバン・クライバーン氏が主宰する米国のピアノコンクールで、中国人ピアニストと1位をわかちあった全盲の辻井伸之さんが、「一度だけ目が開くならお母さんの顔が見たい」と語った、という記事を朝日新聞の「天声人語」で読むやいなや、私の乾ききった左頬にたらーりたらりと数滴の涙がにじんでは落下するのを覚え、「これはいったいどうしたことか」といぶかしみました。ほとんど無意識かつ無自覚にそういう生理的な作用が起きたことに対して、われながら驚いたのです。

そういえば先日某アホバカテレビに出演していた某アホバカ芸能人が、「1分間で泣いて見せます」と豪語したのみならず、実際に見事その通りに泣いて見せたので、私はおおいに驚いたのですが、どうやら涙という液体は、人間が意図しても、しなくても随意にも不随意にも流出する奇妙な液体であるようです。

私自身はまだ泣いてもいないのに、脳が泣けと指令すら出していないのに、末端神経が勝手に涙を流してしまう。私の理性は、泣くべきか泣かざるべきか、もしも泣くのなら適切な排出量にせよ、事態をよーく考えてから実行せよ、と戒めているのに、安物の出来の悪い感情がこれを無視して反乱を引き起こしている。これを自己崩壊といわずになんと呼べばいいのでしょうか。

そして私は、かくも安易に流出する涙というものをけっして過大評価してはならないことを肝に銘じたのですが、それと同時にその涙の排出源となっている悲哀や同情や憐憫といった感情についてもあまり重きをおいてはいけないことを学んだのでした。癒しを求める人はきっと卑しい人間なのです。


明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎 茫洋