蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

不純な視点


♪音楽千夜一夜第75回


パソコンに向かって仕事をしながらテレビをつけていましたら、突然モーツアルトのバイオリンソナタの変ロ長調K454の有名な旋律が流れてきました。

音程だけは正確な清潔で、まずは丁寧な演奏といえるでしょうが、言葉ありて心足らず、まるで精神的に余裕のない、ギスギスした、潤いのない演奏です。同じモーツアルトの名曲なのに、クララ・ハスキルのそれとは比較にならない低次元の演奏に驚いて振り向いて画面を見たら、サントリーホールの真ん中で、赤いドレスを着た美人が、恐ろしく神経質な表情でヴァイオリンを奏でていました。

ただでさえ難しいモーツアルトを、あんなこわばった顔つきで弾いて人々を感動させることなぞ絶対にできません。私は彼女が発する醜いヒステリックな音声を消してしまい、女優を思わせるこの人の、苦悶に震える細い眉のアップや、不安におののく黒い瞳、嗜虐的な欲情さえそそる冷徹な美貌にしばし見とれていました。

あまり大きな声ではいえませんが、肩、腕、背中などを露出した美しい女流奏者が、歯を食いしばり、髪を乱し、われを忘れて演奏に取り組む姿は、どこかエロチックな行為を思わせることがあります。
大きなチェロを両の肢でがしりと挟み込み、エルガーの協奏曲を狂ったように弾く若きジャクリーヌ・ヂュプレの姿は、音楽の神との崇高なインターコースと私には感じられました。

もしかすると熱狂的なコンサートゴアーの中には、美しき女性奏者との官能的なエクスタシーを体感するためにコンサートホールに通いつめる人がいるのかもしれませんし、売り出し中の若手美人ミュジシャンの中には、そのことを熟知してファッションやメイクに留意しているケースもあるのではないでしょうか。ここでは音楽のみならず性も商品として販売されています。

♪嗜虐者なるかはた被虐者なるか弦打ち鳴らす黒髪の人 茫洋