蝶人戯画録

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竹橋で「ゴーギャン展」を見る


照る日曇る日第284回


閉店間際で混みだす前に、と思って東京国立近代美術館で9月23日まで開催中の「ゴーギャン展」に行ってきました。出品は全部で53点とそれほど多くはないのですが、とにもかくにも彼の代表作の「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を見んものと、いの一番に飛んで行きました。

普通の絵はあまりタイトルに凝りませんが、この作品の題名はなにやら哲学的で、ここに彼の実際の絵がなくても、私たちになにがしかの思弁を迫るものがあるといえるでしょう。

遠い母国フランスを離れてタヒチ島くんだりまでやってきた画家は、最後は南洋以外では暮らせない体となり、その近所のマルキーズ諸島で54歳の生涯を終えますが、衰弱する欧州生まれの肉体をじわじわと南洋土着の官能的な肉体と生活と宗教観に囲鐃されて、ここにある種グローバルな人生観と世界観が生まれ、その芸術的な総決算がこの一大絵巻ということなのでしょうか。

上手に描こうとか構図の遠近法をどうこうとか、もはやあらゆる技法や手練手管をぜんぶ放棄したところで成立したヘタウマ無手勝流の大勝利のように成立している奇跡的な作品です。

中央には創世記のイブに比すべき現地の若い女性が背伸びして果実を取ろうとするさまが描かれ、右辺には生まれたばかりの赤ん坊、左辺には死をまぢかに控えた老婆の姿が描かれていますから、これは私たち人間の一生とその間に私たちが経験する生の喜びや苦しみや悲しみを具象的に描いた作品ということはできそうです。

また老若男女の人間ばかりか、熱帯に生息するさまざまな動物や植物、そして背後に位置する海や空などの自然が、人間と同じ比重で、人間と隣り合わせの親しみ深さで描かれていますから、この絵を仏教でいう「山川草木悉皆成仏」という自然観を現したものだと解釈することも可能でしょう。

しかも画面の真ん中から左上にかけて仏像に酷似した月の神がまるで影の主人公のように人間自然界を静かに見守っておられるところから、この絵は、ゴーギャン流の「南洋極楽浄土図」であり「涅槃図」であり、万物が生々流転し、輪廻転生する古今不滅の真実を、洋の東西を超えて唱えているような気もします。

また注目すべきは、この画幅全体を覆っている青を基調とした静謐な空無感で、これが色即是空の世界を色濃く象徴しているのではないでしょうか。人物も動植物もいわば生死を超越した無常観をあるがままに素直に受け入れ、怒りも苦しみもないニルアドミラリの世界に悟入しているようです。
いずれにしても、私たちは空無から生まれ、本有、死有を経て中有に至り、また生有に至る存在ではないでしょうか。


なお今回の展覧会で逸することができない最高傑作は、まぎれもなく画家が最晩年の1903年に遺した「女性と白馬」でしょう。
彼が葬られた白い十字架の墓地の麓で白馬と共に歩み、踊る3人の男女とそのアルカイックなまどいの時間と空間を取り囲むヒヴァ=アオ島の穏やかな風景、とりわけ赤や緑や青の色彩の心に染み込むような散乱は、彼が生涯の最後の瞬間に到達したこの世界との調和、無残な生を生ききることの法悦の境地を、美しく、かぐわしく、懐かしく描いているように感じられます。

♪油蝉交接終えて身罷る 茫洋