蝶人戯画録

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桐野夏生著「ナニカアル」を読んで


照る日曇る日第343回

「ナニカアル」という奇妙奇天烈な題名は、この小説の主人公林芙美子の詩から採られています。林芙美子って「放浪記」の作者であるだけでなく、詩人でもあったのですね。

(前略)刈草の黄なるまた
紅の畠野の花々
疲労と成熟と
なにかある……
私はいま生きている。

詩というよりは、このような単なる断片から思わせぶりな断想を引き出した著者は、林芙美子の花の命のように短い生涯の只中の、それもあっというまに終わってしまった1942年10月から翌年5月までの出来事に、さながら隼戦闘機のように襲いかかり、彼女の実存を丸裸にしてしまうのです。

報道班員として軍隊に徴用された林芙美子は、仏印、シンガポール、ジャワ、ボルネオくんだりまで命懸けの取材旅行を強要されます。そして著者は、天真爛漫な彼女がどのようにして軍部に取りこまれて戦争協力のお先棒を担ぎ、さらには嘘か本当か、軍に睨まれていた新聞記者との情事にのめり込んで一児をなした、なぞという恐るべき秘事を、どこでどうかぎつけたのか、鮮やかにスクープしてのけるのです。

しかしこのスクープの真贋は、この小説自体が「芙美子が書き残した秘密の回想録」であるという形式をとっているために、あたかもフィクションのように巧妙にカモフラージュされているのですが、おそらく彼女はこの偽装された回想録の記述のとおりに南洋のアヴァンチュールの夜の形見として子をなし、それを夫に養子と偽って養育したのでしょう。やはり芙美子の生涯には、不可思議なナニカがあったのです。

それはともかく、ここにひとりの作家がその周辺の文学者や新聞社といまはやりの言葉でいうとコラボレーションして、いかにたやすく精神の独立と表現の自由を喪失し、国家権力の走狗となり果てていくのかが赤裸々に描写してあるので、慄然粛然たらざるを得ません。

ほれ諺にも「殷鑑遠からず」というではありませんか。この種のむごたらしい悲劇が、ふたたびこの国で再現される日は、それほど遠くないに違いありません。


♪摩周湖を泳ぎ出したが怖くなり引き返したりと元赤軍派学生 茫洋