蝶人戯画録

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カール・ベーム指揮バイエルン放響で「後宮からの誘拐」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第146夜

1980年4月にミュンヘン国立歌劇場でライブ収録されたLDの映像です。ベーム翁はこのあと思い出のウイーンでフィガロを振ったあと翌81年8月14日にザルツブルクで亡くなりましたから、これは最期から2番目の白鳥の歌ということになります。

恐らくこの日の演奏は、若き日の思い出の地に決別するためのものであることを、老鶴のように病み衰えた指揮者も、マエストロをこよなく愛する観衆も暗黙のうちに了解しているためでしょう、例によってゆっくりとしたテンポで始められた序曲の1小節1小節が万感の想いで彩られているように聴こえてきます。ベーム翁はこの青春の都を、最愛のモールアルトの音楽を、彼が歩んできた波乱の生涯を懐かしく振り返るようにしながらこのオペラの幕を開くのです。

出演はセリムパシャにトーマス・ホルツマン、ベルモンテにフランシスコ・アライサ、オスミンにマルッテイ・タルベラ、ブロンデにレリ・グリストですが、いずれも破綻なく、わかてもヒロインのコンスタンツエを演じる芳紀20数歳のエディタ・グルベローバが、栴檀の若葉のように初々しく美しく、その歌唱が素敵なことは筆舌につくしがたいものがあります。

第2幕の有名なアリア「あらゆる拷問が」では、興奮した聴衆の呼び出しに応じて登場した彼女がうやうやしく答礼するという、トスカニーニなら絶対に許さなかったであろうシーンもちょっとした見ものでした。

演出は安心して見物することができる正統派のアウグスト・エファーディング。トルコ風呂に入った偉丈夫のタルベラが吹き出す蒸気にむせかえる一幕もありましたが、照明や美術、オスマントルコの異国情緒豊かな衣装やインテリアも含めてこのモーツアルトの出世作の素晴らしい音楽をくっきりと引きたてていました。

そしてなによりのご馳走は、もちろんベーム翁の音符の隅々にまで歌心が充満した円熟の指揮振り。どんな軽いパッセージにもモーツアルトの音楽を生きる喜びが満ち溢れていました。モーツアルトのこのオペラの決定盤的な演奏であり、マエストロの遺作にふさわしいまことに立派な演奏といえましょう。


私と障碍のある長男を並べて髪切る小林理髪店 茫洋