蝶人戯画録

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月下美人のような妖しい芸術の花 「車谷長吉全集第1巻」を読んで

kawaiimuku2010-10-12



照る日曇る日 第378回

この巻では処女作「なんまんだあ絵」から平成年の「大庄屋のお姫さま」に至るまでの短編と中編をことごとく読むことができ、車谷長吉という不世出の作家の労作を読む楽しさというものを満喫させてくれます。

長編の代表作は「赤目四十八瀧心中未遂」と相場が決まっていて、それ以降の作品が生彩を欠くのに対して、短編と中編は予想に反して、近作ほど文学的価値がいや増していることに驚かされました。

著者が料理屋の下働きをしているときに知り合った青山さんの、恐るべき殺人の秘密を書きつづった「漂流物」や、著者の母親の人生観を赤裸々に描破しつくした「抜髪」における、さながら宮本常一の「土佐源氏」を思わせる一人騙りの名人芸は、2005年の「深川大工町」や、2006年の「大庄屋のお姫さま」において、一層豊かな広がりを見せながら、あらたな果実を収穫しているといえましょう。

「萬蔵の場合」「児玉まで」「神の花嫁」「忌中」「密告」における卓抜なストーリーテリングは、2005年の「阿呆物語」において、まるでシェークスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」を思わせる極上の喜劇小説に結晶しています。

1992年の「鹽壺の匙」以来、長く苦しい創造の道を歩んできた車谷長吉は、ここに至って虚実皮膜の薄明の闇に誕生する月下美人のような妖しい芸術の花を、次々に咲かせようとしているようです。

虚心坦懐に本書を通読すれば、著者を指して平成のマンネリ私小説作家であるとする謬見なぞは、木端微塵に粉砕されることでしょう。

しかし作品を評するということのなんと軽薄にして残酷な営為であることか。作家が何十年も魂魄を禊ぎ、生身を削って彫琢した膨大な文字群をたった数日で速読して偉そうに断じるのですから。


       今宵咲く月下美人の彼方かな 茫洋