蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

角田光代著「ツリーハウス」を読んで

kawaiimuku2010-11-17


照る日曇る日 第385回

貧しい田舎で喰いつめて旧満州に飛びだした祖父とそこでめぐり会った同じような境遇の祖母。敗戦の大混乱の中を命からがら引き揚げ、誰のものとも知れない新宿十二社のバラックではじめた小さな中華料理屋翡翠飯店が、父親と母親、そしてその子良嗣たちの生活の拠点となる。きっとそんな来歴の店がいまも西新宿にはあるのだろう。

若くして家と祖国を見捨てた祖父母にとって帰国した母国は、すでにそれ自体が異国であり異郷であるから、息子や娘たちに対して境界と秩序と規矩のない開放的な空間が提供されることになる。

ここに集うのは、大陸からの引き揚げ者なら誰でも寝泊まりさせて平気な祖父母、放恣な性関係を続け女性を冷たく捨てて顧みない長男慎之輔、カルト宗教にいかれ、教え子の女子高校生を店に連れ込んでくる次男太二郎、反体制運動に入れあげ原因不明の自殺を遂げる三男基三郎、男に捨てられて出戻る妹今日子、狭い庭の木の股に秘密基地トリーハウスを開設する慎之輔の長男基樹……、いずれも私たちがどこかで見聞きしたはずの人物ばかりだ。

こうした常に動揺して入り乱れる藤代家の面々の面白くてやがて哀しいヒストリーを、いわば客観的な物差しとして測定するように割って入るのが、慎之輔の次男良嗣の視線で語られる祖母ヤエの中国望郷旅行である。夫と共に青春時代を過ごした故地で見知らぬ中国人の前で深く頭を下げたヤエは、帰国すると間もなく死ぬのだが、藤代家にはすでに4代目の家族たちが暮らしている。
デラシネ家族たちが作り上げる規範のない共同体は、これからいったいどこへ行こうとするのだろうか?

丁寧に紡ぎあげられた作者の巧みな伏線の糸をたどって、つらつらこの本を読まされているうちに、藤代家一族3代およそ70年の歴史が、まるで作者自身の家族の物語であると同時に、わたしたち日本人の平均的な家庭、あるいはもっと飛躍して言えば八紘一宇的な「日本」という共同体の原基であるような不思議な感慨に襲われた。おそらく私たちは70年前とちっとも変ってはいないのだ。


振りさけ見ればいがぐり右目に落下して棘とげ刺さりし小関少年今頃どこでどうしているか 茫洋