蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

極楽寺坂下の「星ノ井」を訪ねて


鎌倉ちょっと不思議な物語第236回


鎌倉は水の悪い土地でしたが、一〇の井戸と太刀洗い水など5つの名水がありました。

平安時代の有名な歌人、藤原公任

われひとり かまくらやまを こえゆけば 星月夜こそ うれしけれ

という和歌があり、星月夜は鎌倉の枕詞となっていますが、この「星ノ井」という名前はこの一帯を「星月夜が谷」と称したことから命名されたといわれています。

この辺りは昼なお暗いところで、昼でものぞけば星が輝いていたことが奈良時代の行基の伝説にも伝えられています。全国を行脚していた行基がこの井戸をのぞいてみると3つの明星がきらきらと輝いていたそうです。土地の人に掘らせてみると、底から珍しい石が出てきたので、行基はこの石を虚空蔵菩薩の像に刻んで、近くの山腹に安置しました。それが現在星ノ井隣の石段を上ったところにある「虚空蔵堂」です。

名水として知られる星ノ井は、昔から貴重な飲料水として販売されていたようです。小説家広津和郎の「静かな春」(昭和48年)にはその高い評判が記されていますが、彼の父柳浪は「この水は明礬が混じっているからお茶が濁ってだめだ」と排斥したので、近所の酒屋が、「これがだめならどこの水がいいんだ」と言って驚いたという話が書かれています。

太宰治の墓前で自殺した田中英光は、昭和40年の「われは海の子」で「青みどろの水を湛え底深く光る井戸は一種の鏡であった」と記していますから、まだそのころまでは清らかだったのでしょうが、現在では井戸の上に細竹を敷き並べたふたがしてあるので、中も覘けませんし水も汲めないのが残念です。

以上は、鎌倉市教育員会発行の「かまくら子ども風土記」と鎌倉文学館の資料をもとに書きました。

星月夜鎌倉の闇の深さかな 茫洋


星ノ井や君の瞳とわが瞳 茫洋