蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

年末年始音楽三昧


♪音楽千夜一夜  第174夜


旧年中からの仕事で、大晦日も元日もなくひたすらパソコンに向かっている2011年の幕開けですが、そういいながらもちゃんとNHKの音楽番組はチエックしておりました。

先ずは2009年のベルリンフィル恒例のシルべスター・コンサートですが、これが思いがけず良い演奏で拾いものをしたような気持ちになりました。ベルリンフィルは高く評価するものの、そのシェフのサイモン・ラトルの音楽性について大いなる疑問を懐き続けてきたわたくしめでありましたが、当夜のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」はなかなか良かった。

チャイコのバレエは、彼の交響曲やオペラを凌ぐ本当の傑作ばかりですが、とりわけこの曲はいくら聴き続けてもけっして嫌にならないほどよく出来た曲です。その名曲をまるで作られたばかりの新鮮さで聴かせてくれたラトルは、もう昔のラトルではない。かれのブラームスの全曲録音がかれの音楽遺伝子を全とっかえしてしまったのかも知れません。
この度めでたくコンマスに就任した樫本大進やビオラ首席の清水直子も、ラトルともども力演していました。

 続く元旦恒例のウイーン・フィルのニューイヤーコンサートは、指揮者が小澤の後任で国立オペラのシェフに就任したフランツ・ウエルザー・メストへのお祝儀ということで、なんの期待もしていませんでしたが、まったくその通りの普通の演奏に終始していました。

 ウイーン・フィルのウインナワルツは、妙な指揮者(例えば小澤、メータ、アーノンクールバレンボイムなど)が妙なことをすると、その本来の良さが傷つけられて台なしになるのですが、ぬきんでた指揮者(例えばカラヤンクライバー)が妙なことをすると、時として素晴らしくなるという変態的な特性があります。

 メストはそういう危険を冒さない代わりに、かといって「メストならではのなにか」はアンコールの2曲にいたっても何も出てこない、まるで水道水の垂れ流しのような演奏でした。こんなことは彼がチューリッヒ歌劇場で垂れ流していた「清く正しく美しい宝塚オペラ」を聴いたことのある人なら、とっくに分かっていたはずです。

 私がいいたいのは、この人やブロムシュテットとかサバリッシュなど賢くて秀才型で真面目な人格者は、あんまり指揮者などにならないでほしいということです。大体君たちのインテリ臭い顔は、そもそも音楽をやる顔じゃあない。古今東西を問わず、ミュージシャンは、やくざな河原者の専売特許であることを忘れてもらっちゃあ困ります。

 偉大なるサイモン・ラトル「卿」が、サーなるご立派な称号を惜しげもなくテムズ河に投げ捨て、かのビートルズを生んだリバプールのバサラな伝統を受け継ぐラトル「狂」になり下がった時、ベルリン・フィルカラヤンを超える偉大なマエストロを戴冠することになるでしょう。



    おいらはしょせん河原乞食そうおもいながら指揮せよ指揮者 茫洋