蝶人戯画録

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フルトヴェングラー指揮「ドン・ジョヴァンニ」を視聴する

音楽千夜一夜 第177夜

1954年8月のザルツブルク音楽祭の折にパウル・ツインナー監督の手で映画収録された歴史的演奏を最新のハイヴィジョン・マスター版でみることができました。

 なんといっても冒頭の序曲を福禄寿のようなフルヴェンご本人が指揮する有り難いお姿を拝見出来るのがこの映像の最大の特色です。右手でリズムを取りながら時々左手で指示を送るのは他の指揮者と同じですが、最初の拍の振り出しを「わざと曖昧に」振っているのが印象的。きっと運命だってああいう感じでアバウトに振り下ろすのでしょう。オケは当然アインザッツが不揃いになるのですが、音楽的にはむしろそのほうが即時的感興に富み、収穫されるべき果実が多いというのがフルヴェンの考え方だったのでしょう。

 テンポは遅い。というよりも遅すぎるように感ぜられますが、このことがアリアの言葉の意味を際だたせ、普通なら聴き飛ばす箇所に重い意味を持たせます。例えばオットー・エーデルマンが歌う有名な「カタログの歌」のリフレインがこれほど意味深く当時の、(そして今の観衆の耳にも)届けられたことはなかったでしょうし、アントン・デルモータが歌うドン・オッターヴィオのアリアにもそれと同じことが言えるでしょう。

しかしこの悠長とも思える遅く、重々しいテンポは、最後の幕のドン・ジョバンニの有名な「地獄落ち」の場面で最高最大の効果を発揮することをフルトヴェングラーは熟知していました。不世出のドン・ジョバンニ役者チエザーレ・シェピは、「悔い改めよ!」と迫る騎士長に、「ノン、ノン、ノン!」と3度4度と断固拒否を貫くのですが、双方の対決を支援する管弦楽の圧倒的な遅さと圧倒的な咆哮の兇暴さは、ヘルベルト・グラーフの絶妙な演出とあいまって、前代未聞の凄まじさで私たちの脳天を震撼します。

モーツアルトにスコアには、この「地獄落ち」で終わる版とその後で6人が揃ってめでたしめでたしと終曲を歌うロングバージョンの2種がありますが、フルベンは後者を演奏しつつも、このオペラの本質は「地獄落ち」の迫真性そのものにあることを見定め、だからこの遅いテンポをあえて設定したのだということが、オペラの肝心かなめのキーポンントを聴いてはじめて分かるのです。


えんやこらしょっとバイロイトに響き渡るウインフィルの咆哮 茫洋