蝶人戯画録

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トスカニーニの「ワーグナーコンサート」を視聴して


音楽千夜一夜 第178夜

フルトヴェングラーバイロイトでウイーンフィルを指揮する「ドン・ジョヴァンニ」のあとで、まるでグリコのおまけのように放送されたのが、この番組でした。

これは一九四〇年代から五〇年代にかけてNBCスタジオやカーネギーホールで収録されたワーグナーのライヴ映像ばかりを集めたもので、タンホーザー序曲やワルキューレ第三幕の「ワルキューレ騎行」、トリスタンとイゾルデの「前奏曲と愛の死」などのいずれも全曲からの抜粋がいくつか演奏されたのですが、はじめて目にするトスカニーニの指揮振りの精悍さと正確さ、そしておのが音楽の真髄を聴衆に届けようとする心情あふれる姿に大きな感銘を覚えました。

いずれの演奏も、音楽の内容よりも、その厳密なテンポや音量の制御などの形式面からまず耳を奪われます。フルベンと違ってトスカニーニの指揮は、テンポを制御する右手と楽器の入りとその流通を管理する左手に加えて、千変万化する顔の表情が大活躍します。彼は、自分がリハーサルのときに指示した楽器が正しいときに、正しい音量で、正しく演奏されていないときには仁王様の柳眉を逆立て眼光鋭く睨みつけますが、しかしトリスタンとイゾルデの終結部などで彼の手兵NBC交響楽団が見事な演奏をやってのけている最中には、突如童顔に帰ってまるで餓鬼大将のように微笑む姿には驚き、感動させられました。

この音楽の鬼軍曹は、たしかにオケをアホバカ呼ばわりもしたのでしょうが、おそらくそれだけではなかったはずです。そこには誰のものでもないトスカニーニだけのワーグナーの音楽が鳴り響いていました。オーケストラの面々は、トリスタンとイゾルデに替わって歌い、また歌い、さらに歌い続けていました。

そこに光り輝いていたのは、音楽そのものでした。トスカニーニと音楽することの無上のよろこび、そして連夜の奇跡的な演奏の成就がなければ、誰がこの天才指揮者の無礼と独裁に唯々諾々と従ったでしょうか。

番組の最後には、なぜかワーグナーではなくヴェルディの「諸国民の讃歌」という珍しい曲がピーター・ピアーズの独唱と合唱付きで演奏されていました。
故国イタリアのファシスト政権が崩壊し第2次大戦が連合国の勝利によって終結したことをことほぐこの演奏では、勝利国の英仏米の国歌のほかに、なんと「インターナショナル」が演奏され、大いなる過ちを犯した母国イタリアも含めて全世界が恩讐の彼方に新たな平和を構築しようではないか、とばかりに「諸国民の讃歌」が高らかに謳いあげられるのですが、その後の世界がどのような変転を辿ったかを知る者にとっては様々な感慨が胸に浮かんでくる映像です。


健ちゃんに行火を買って待っている 茫洋