蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

シドニー・ルメット監督の「オリエント急行殺人事件」をみて


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.107

江戸時代の赤穂浪士の敵討に似た復讐は姿形こそ変えながら、平成の太平の御代にも以前として生きながらえている好個の例を、たとえばアガサ・クリスティ原作のこの映画のスピリッツの中にも認めることができよう。

リンドバーグ愛児殺人事件に酷似したこの事件において、急行列車に乗り合わせた12人の関係者は、天人ともに許すべからざる凶悪犯にひとり一人が鋭いナイフを都合12回つきたてるが、それを知り、それを理解し、それを許した私立探偵ポワロ(すなわちアガサ・クリスティ)はその凶悪な犯罪をあえて闇に葬る。

驚いたことに、この映画の中では私憤と私的復讐が是認され、いわゆる法と秩序が徹底的にないがしろにされているのである。

しかし法による決着を私たちが大好きな警察や軍隊や国家権力にゆだねておけば、それで個人の恨みつらみが解消されるかといえば、てんでそんなことはない。

そもそも法の順守を強制する国家権力じたいが歯止めを知らない無敵の暴力装置であり、超法規的存在であり、ひとたび戦争状態に入れば他国の民衆を非合法に殺戮するのみならず自国民の法的保護すらガラガラッポンと放棄するのであるから、それを思い出し、これを思えば、平時における法と秩序の正当性の根拠などはなはだ脆弱かつ吹けば飛ぶようなものであろう。

国家や権力や秩序にとってはハタ迷惑でも、司法の埒外で罪と罰の私的な交換関係は持続している。私は、娘を暴行殺害された父親が憎き敵を殺害したり、交通事故で愛する人を奪われた家族が、犯人に対して眼には目、歯には刃で実力で酬いる習慣を、野蛮で動物的で前近代的ないし反近代的な所業として第3者的にあっさりかたづけることは到底できない。

たらちねの母はいつまで生きるやら 茫洋