蝶人戯画録

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カルロス・クライバーのドキュメンタリー「ロスト・トゥー・ザ・ワー

♪音楽千夜一夜 第197夜


惜しまれつつ瞑目した史上最高の指揮者の一人の生涯の軌跡を関係者の証言で辿った音楽ドキュメンタリー。証言者のなかには、それにバイエルンのオペラでの凡庸な同僚サバリッシュなども登場してちょっと辛口のコメントを吐くが、それでも彼は神経質なクライバーを終始擁護し激励した人だった。

リッカルド・ムーティやミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンクなどの証言者の大半が、彼を「神が地上に遣わした音楽の天使」などと大仰に褒め称えているが、それがあながち誇大な表現であるとも言い切れない奇跡的な演奏を、実際に彼は一九八六年の人見講堂におけるベートーヴェンの七番の第四楽章などで繰り広げた。

そしてその真価は、このドキュメンタリーの通奏低音のようにして流れている八〇年代のバイロイト音楽祭における「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル映像においてまざまざと映し出されている。とりわけ終曲の「愛の死」のクライマックスを見よ! 誰もが頭が空っぽになり、肌に粟が生じてくるようなエクスタシーの現前は、いかにもこの不世出の指揮者の独壇場で、このような芸術の高みに登った音楽家はそう多くはなかっただろう、と思わせる素晴らしさと物凄さである。

このような演奏を可能にしたのは、彼の頭の中で鳴る音楽の独創性と、それを現実の音に置き換えていく彼の練習の際の言葉の力であることは明白で、リハーサルで彼が繰りだす卓抜な比喩の誘導によってオーケストラの音楽がどんどん変わっていくありさまを、私たちはこのドキュメンタリーにおいても再確認することができる。

しかしそれはいつもうまくいくとは限らないのであって、ウィーン・フィルベートーヴェンの四番のリハーサルを行っているとき、「この箇所はテレーズ、テレーズと歌ってください」という彼の指示を、第二バイオリンの心ない奏者たちは、「いやマリー、マリーでいいのでは」などととあざ笑い、あえて無視しようとする。

激高したクライバーは、懸命に引き留めるコンマスのヘッツエルの手を振り払って、そのまま空港に直行してミュンヘンに帰ってしまうのだが、彼は毎日帰りの飛行機の予約を入れていたそうだ。

といった塩梅で、クライバーのファンならずとも見どころ満載のドキュメンタリーである。原題は「I am lost to the world」で、これはマーラーのリュッケルト歌曲集の中の「私はこの世に忘れられ」からの引用であろう。音楽にあまりにも高い完成度を求めたためにもはや普通の演奏に甘んじることができず、急速に指揮台から遠ざかっていった晩年の天才指揮者の孤独を象徴するようなタイトルではある。


あなた何してんの早く30キロ圏まで退避しなくちゃ 茫洋