蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

カルロス・クライバーのドキュメンタリー「目的地なきシュプール」を


♪音楽千夜一夜 第198夜

今宵もクライバーのドキュメンタリーを視聴しました。昨年オーストリアで製作されたばかりの「Traces to Nowhere」という原題の映像で、エリック・シュルツという人が演出して不世出の天才指揮者の軌跡を辿ります。

出演はブリギッテ・ファスベンダー、ミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンク、マンフレート・ホーニク、プラシド・ドミンゴ、アレクサンダー・ヴェルナーなどの指揮者や歌手や演出家、評伝作家のほかに、南ドイツ放響のフルートやピッコロ奏者、メイクの女性、さらにこれまでいっさいマスコミに顔を出さなかった彼の実姉ヴェロニカ・クラーバーが特別出演して「死ぬまで彼は寂しい男の子でした」と語るとき、アルスの御業によりて天界と人界をサーカスの綱渡りのようにつないだ天使の本質に、一筋の微光が差すようです。

ここでも素晴らしいのは南ドイツ放響との「こうもり」のリハーサル風景で、楽員に対して音楽のために全身全霊を捧げることを求め、バトンを天に向け、「まだ見ぬ音を勝ち取るために戦ってください」「8分音符にニコチンを浸してください」などと訴える若き日のクライバーの姿が胸を打ちます。

やがて守旧派の奏者を心服させたマエストロは歌いに歌い、いまや音楽と音楽家は完全にひとつに溶けあって、この世ならぬ至上の時、法悦の時へと参入していく……。さてこれまでいったい他のどの指揮者が、このような音楽の奇跡を成し遂げたと云うのでしょうか。

無数のオペラと交響曲、管弦楽曲とオペレッタを自家薬籠中に収めていたにもかかわらず、父を尊敬するあまりエーリッヒが録音したか楽譜を残していた曲以外は演奏しようとしなかったクライバー。その父を超える技術と感性を持っていたにもかかわらず、常に父に引け目を感じていたクライバー

父と並ぶ完璧さを求めようとするあまり、とうとう演奏が無限の苦行と化してしまったこの悲劇の天才は、短すぎた彼の生涯に終止符を打つために、愛する妻スタンカが眠るスロベニアへと死の逃避を敢行したのでした。

地上では行く場所失いしクライバー眠れわれらの記憶の底に 茫洋