蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

佐渡裕指揮ベルリン・フィルの演奏を視聴して

♪音楽千夜一夜 第207夜


今年5月20日にベルリンのフィルハーモニーで行われたベルリン・フィルの定期ライヴをBS放送で視聴しました。

まず武満徹の「フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム」ですが、これが今まで誰からも聴かされたことのない希代の名演奏でした。

指揮者がなにかを意図的に仕掛けた形跡はまったくなく、ただ作曲者が楽譜に記したとおりを、素直に朴訥に音にしていったに過ぎないのですが、ベルリン・フィルの奏者、とりわけ5人の打楽器奏者の妙技が、武満の音楽の特異性と素晴らしさをいやがうえにも引きだして、最後にカラヤンサーカスの天井に吊るされた鐘が天国からの妙音を降らせる箇所では涙が出てくるほどの名演でした。

バッハやベートーヴェンなど西欧の音楽家が、「存在を沈潜して神の前での無に終わる」という音楽を書いたのに対して、武満は、「空無から出発して宇宙的存在に至る」という、それまでとはベクトルが180度異なる革命的な音楽を創造したのですが、そのことの意義をものの見事にあきらかにした奇跡的な演奏でした。

けれども次のメインの曲、ショスタコーヴィッチの二短調作品47の交響曲は、ベルリンフィルの献身に支えられた熱演とはいえ、何の感銘も感動もない凡演、と言って悪ければ、普通の演奏でした。

指揮者が曲の核心に第3楽章を据えたのは正解ですが、どのような思いで作曲者がこの悲痛なラルゴを書いたのか、その意味がよく分かっていない、あるいはそういうところまで遡って曲想を鋭く抉ろうとする意思が、この指揮者には(にも)ないようです。

彼の師匠であるバーンスタインも、ショスタコーヴィッチの思想と生き方に想像力を巡らせることなく、ただ音響のみが乱高下する大力演を残していますが、ことこの作曲家の演奏にかんしては、いま流行の純器楽的解釈で臨むのは、よいアプローチとはいえないのではないでしょうか。

からだの中に深いさけびがあり
口はそれ故につぐまれる
からだの中に明けることのない
夜があり
眼はそれ故にみはられる(谷川俊太郎


という詩の言葉が意味するものを、この勉強家の超ド級指揮者には是非分かっていただきたいものです。


紫陽花の花のごとうつろうよニッポンおよびニッポン人の心 茫洋