蝶人戯画録

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小島信夫著「うるわしき日々」を読んで

照る日曇る日第441回

この本は何と言っても題名がよい。それが素敵なタイトルであるということは、ちょっと目端のきいた人ならすぐに分かってくれると思うのだが、著者の説明では、ベケットの「しあわせな日々」という芝居からとり、ベケットヴェルレーヌの「うるわしき(しあわせな)日々」からとった。ベケットヴェルレーヌも昔を回顧するという観点からのネーミングで、著者がこの題名で短編を書くと知った大庭みな子は、そこからの引用で、「楽しみの日々」を書いたそうだが、そうと聞くと、私はかのマルセル・プルーストの名編「楽しみと日々」を思い出してしまう。いずれにしてもいいタイトルであるが内容は麗しいどころの騒ぎではない。

八十をとうに越えた老人がアルツハイマーが進行中の愛妻と重度のアル中(コルサコフ症候群)で入院中の息子をかかえこんで、朝から晩まで右往左往するという悲惨な話である。これは、人生の本質は「生病老死」であるといわんばかりの心境小説であり、その孤独な暗夜行路に待ち構えているのは、主人公自身の死であることもまた明々白々であるというのに、この人の末期の眼は異様なまでに冴えわたり、その死に至る道中で見聞きする光景や相次いで生起する事件のすべてを精妙に記録し、判断し、われらにあけすけに語り続ける。

この人にとって生きることはすなわち書くことであり、書くことがすなわちいまという瞬間を永遠につなげていくいとなみに他ならない。そこでは実際には何の希望もない悲惨な現実を書くことが、絶望ではなく希望に直結しているという奇跡的なパラドックスを誕生させ、悲劇をあますところなく対象化しようとした文章が、あろうことか一抹のユーモアとペーソスを湛えた人間喜劇にさえ転化しようとしている。

これを著者の人生最後の神業と呼ばずになんと評せばいいのであろうか? かくして偉大な文学者の晩年の苦悩に満ちた日々は、「麗しき日々」となったのである。


かにかくに今日もなんとか生きているかくかくしかじかてふコマーシャルが大嫌いなわたし 蝶人