蝶人戯画録

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伊集院静著「なぎさホテル」を読んで

kawaiimuku2011-07-26

照る日曇る日第448回

これは昔逗子海岸にあったホテルを舞台にした、著者の青春回顧小説である。

離婚の慰謝料や借金をかかえ実質的には一文なしの風来坊が偶然逗子の海を訪れ、なぎさホテルの支配人の格別の好意に恵まれて出生払いということでその夜から寄宿し、およそ六年間の歳月を海岸に打ち寄せる波の音を枕の友として文学全集を読破し、短編小説を試み、浴びるように酒をくらい、危ない橋を渡り、鎌倉の漁師や寿司屋の主人やおじさんやおばさんと仲良くなり、人気女優と熱愛し、とうとう結婚して思い出多い逗子なぎさホテルを去るまでの夢のような、幻のような、しかし確かに実際にあった物語がとつとつと綴られている。

この作家の文章はどちらかというと拙劣で、用字用語的に都会的で洗練された要素は皆無だが、一字一行をひたすら実直に書き連ねたその下手くそな文章を読んでいるうちに、この人の内面に潜んでいるある種の清々しい倫理観、書かれた内容に関する好ましい節度と誠実さというものが読者の心に少しずつ岩肌から垂れる清水のように沁み込んできて、それがおのずから他の作家との違いを形づくっているような按配である。

こうした著者の芸は、俳優にたえれば高倉健、野球選手にたとえれば松井秀喜といった人物のパフォーマンスに酷似している。高倉健の演技など下手くそでどうにも見ていられないが、じつはその下手くそさが彼の最大の魅力であり、大衆をつかむ武器ともなっているのだ。

かつて私が高倉健氏にインタビューするためにたった一度だけお会いして名刺を渡した時、氏はあの黒々と耀く両のまなこで私を射竦めながら、東映映画のスクリーンに響き渡る太く低い声で「頂戴致します!」と一言いって、両の手を剣のように突き出して紙片を押し頂いてから、深々と一礼された。

私は伊集院氏には会ったことはないが、もしかすると健さんのような振舞いをする人物ではないかな、とふと思った。彼は絶対に上手な文章を書かないように己を戒めることによって、最良の自分を表現しようと努めているのだ。



ああひめじおんのうえで胡蝶たちがたわむれているよ 蝶人




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「モンブラン・ヤングアーティスト・パトロネージ・イン・ジャパン2011」
会期:2011年7月7日(木)〜9月21日(水)
場所:モンブラン銀座本店3階(営業時間:11:00-20:00)
東京都中央区銀座7-9-11モンブランGINZA Bldg 銀座中央通り・資生堂斜め向かい

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